本能寺の変1582 【重史169】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史169】 『信長公記』
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
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←1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
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←2 光秀の実像 1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡 1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 「事態急変」
1 勝利の余韻 4月21日 24日
2 四国出陣
3 足蹴事件
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251023 260315
【重史169】
①人間五十年、
②下天の内をくら(比)ぶれば、
③夢幻の如くなり、
④一度生を得て、
⑤滅せぬ者の有るべきか、
『信長公記』
永禄三年1560、五月十九日。 15600519
これが信長の生き様であった。
信長は、幸若舞を好んだ。
特に、「敦盛」の、この一節。
敦盛を一番より外は、御舞ひ候はず候。
人間五十年、
下天の内をくら(比)ぶれば、
夢幻の如く也、
一度生を得て、
滅せぬ者の有るべきか、
(『信長公記』「天沢長老物かたりの事」)
信長は、己の人生と重ね合わせた。
信長は、孤独だった。
四囲は、皆敵。
この様にして、自らを鼓舞したのだろう。
そして、激動の時代へ立ち向かった。
織田家の存亡を賭けて。
その姿が目に浮かぶ。
信長は、「五十年」を強く意識していた。
心の奥底に、深く刻み込まれた。
余程、気に入ったのだろう。
『信長公記』には、二度出てくる。
ともに、首巻。
一、「天沢長老物かたりの事」
一、「今川義元討死の事」
「五十」、「五十」と、つづく。
強く意識していた証拠である。
「人間五十年」の意味。
そもそも、「敦盛」の主人公は熊谷次郎直実である。
直実は、一ノ谷の合戦(1184)で平敦盛を討ち取った。
我が子と同じ年頃の若武者だったという。
後に、その菩提心から、出家して高野山へ上った。
この一節の前後は、この世の無常と直実の心情を表現する場面である。
したがって、本来の意味は次のようになる。
「人の世」の五十年は、
下天(天上界の最下位)のわずか一日にすぎない、
夢・まぼろしの如く、短く、儚いものである、
この世に生を享け、死なぬ者など一人もいない。
信長は、戦国時代の後半を生きた。
ところが、やがて、この部分だけが、前後の流れから切り離されて、
独り歩きするようになった。
昔の人は、短命だった。
早死する人が多かった。
人々の大半が、直感的に、「人の一生は五十年」をイメージした。
その方が、現実にマッチしたからである。
そして、年を経るごとに、その傾向が色濃くなった
信長の生きた時代。
すなわち、天文三年1534から、弘治・永禄・元亀を経て、天正十年
1582までの間は、戦国時代の後半に当たる。
とすれば、なおさらである。
当時の人々は、次のように解釈した。
自分たちの人生をダブらせた。
「人の一生」は五十年、
下天のわずか一日にすぎない、
夢・まぼろしの如く、短く、儚いものである、
この世に生を享け、死なぬ者など一人もいない。
戦国乱世。
油断すれば、命を失う。
過酷な時代だった。
そして、桶狭間へ。
本能寺の変1582から遡ること、22年前。
永禄三年1560、五月十九日。
正に、手に汗握る名場面。
信長、この時27歳。
「出家の心情」が「出陣の決意」に転じている。
案の如く、夜明(十九日)がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたより、
早(はや)、鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。
此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年、
下天の内をくら(比)ぶれば、
夢幻の如くなり、
一度生を得て、
滅せぬ者のあるべきか、
とて、
螺(かい)ふけ、具足よこせと、仰せられ、
御物具(もののぐ)めされ、
立ちながら、御食を参り、
御甲(かぶと)をめし候て、
御出陣成さる。
(『信長公記』「今川義元討死の事」)
太田牛一と『信長公記』について。 【人物】
太田牛一は、信長の家臣。
元々は、柴田勝家に仕えていた。
その後、信長の直臣となった。
永禄十一年1568の頃という。
以来、天正十年1582までの十五年間。
信長をよく観察した。
それらを克明に記録して、書き溜めておいたらしい。
それを元に書き上げたのが当記である。
慶長三年1598のことであった。
信長が没してから、16年が経過していた。
永禄十一年から天正十年まで、年ごとに順に全十五巻。
当時を知る上で、極めて重要性の高い貴重な史料である。
首巻は、その少し後に書かれたようだ。
こちらは、牛一が信長の家臣になる前の記録である。
その多くは、口承等に拠ったものであろう。
この頃は、まだ、牛一と同様、存命の旧臣たちが数多く存在していた。
若き日の信長について、彼らから聞き取ることが比較的容易にできた
ものと思う。
複数の人たちから、裏付けをとることも可能だっただろう。
だが反面、記憶違い等のため、年月日・場所等について、確実性に
問題のある箇所も有る。
牛一にとって、信長は自慢の主君。
印象深い場面だったのだろう。
鮮烈な記憶として、後々まで残った。
信長は、典型的な戦国武将。 →【信長という男】 目次
忍耐強く、我慢強い。
執念深く、粘り強い。
目的のためには、手段を選ばぬ恐ろしい男だった。
信長は、きわめて、目的意識の強い男。 →【信長という男】 目次
心に決めたことは、必ず、成し遂げた。
信念の人・実行の人である。
この「五十年」が、信長に先を「急」がせた。
天正十年1582。
三月。
武田氏、滅亡。
圧倒的な武力を背景にした、衝撃的な大勝利であった。
信長は、ここで、己の武威の強大さを確信した。
これすなわち、「武田効果」。
そして、五月。
いよいよ、中国出陣である。
信長は、「天下布武」=「日本統一」を成し遂げるつもりだった。
信長は、燃えていた。
心身ともに、きわめて壮健。 →【信長という男】 目次
「十年」
「いや、二十年」
「まだまだ、これから」
そう、思っていたことだろう。
信長、この時、四十九歳。
脳裏にあるのは、「人間五十年」。
信長は、この「五十年」を人生における大きな節目と考えた。
すなわち、以前と以後。
それまでに、「天下布武」。
そして、来年は、節目=五十歳の年。
その後、「さらなる夢」。
一大艦隊を編成してシナを征服し、 「イエズス会日本年報」
一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、 『日本史』
→【重史008】
そう、考えていたのだろう。
となれば、・・・・・。
残すところは、一年余り。
「急がねばならぬ」
と、なる。
彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。
【重史146】⑤/⑲『日本史』
前を見れば、後ろは見えず。
信長は、急いだ。
否、急ぎすぎた。
それが、「焦り」となり、
そこに、「隙」が生じた。
これすなわち、「油断」。
「五十年」→「急がねばならぬ」→「焦り」→「隙」=「油断」
光秀は、これを見逃さず。
そこを衝いた。
信長、一歩及ばず。
立ち上る煙とともに、天空の彼方へ。
戦国の世は、無情なり。
これが「本能寺の変」である。
【引用】
【光秀という男】 結論 21/x
【四国問題】 天正十年1582 五月十二日
3【信長の人物像】 信05
重要 ◎目次 2信長と「敦盛」 人間五十年 ◎第4話 第4話
【参照】
【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】
【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
