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本能寺の変1582 【重史052】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史052】 「イエズス会日本年報」 

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
         2美濃
         3尾張
2 光秀の実像 1信長という男
         2光秀という男
         3光秀と光慶  1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
         4先祖の教訓
         5大量殺戮
         6信長の弱点
3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
         2志向の相違
         3光秀の老い
         4四国問題
         5自立への道
4 武田の滅亡 1甲斐遠征
         2勝頼の首
         3武田効果
5 信長の油断 「事態急変」
         1 勝利の余韻 4月21日 24日
         2 四国出陣
         3 足蹴事件
         4 中国出陣
         5 時は今、・・・・・。
さる程に、不慮の題目出来候て、
【注目ポイント】 目次
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251019 260316

【重史052】

①彼の生まれた五月の日に

②己の神体を拝むことを命じた。

③信長がかくの如く驕慢となり、

④祭りを行った後十九日を経て、

⑤その体は塵となり灰となって地に帰し、

⑥その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。

                  「イエズス会日本年報」


 天文三年1534、五月十二日。
            153400512
 織田信長が生まれた。
 
 尾張の戦国大名、織田信秀の嫡男として。

 フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
 五月は、小の月(二十九日まで)。
 逆算すれば、そうなる。

  而して領内の諸国に布告し、市町村においては男女貴賤悉(ことごと)く
  彼の生まれた五月の日にかの寺院に来って同所に収めた己の神体を拝む
  ことを命じた。

  諸国より集まった人数は非常に多く、ほとんど信ぜられざるもので
  あった。

  信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主であるデウス
  のみに帰すべきものを奪はんとしたため、
  デウスはかくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ
  給はず、
  安土山においてこの祭りを行った後十九日を経て、
  その体は塵となり灰となって地に帰し、
  その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
                 
(「イエズス会日本年報」1582)



 【引用】【四国問題】 天正十年1582 5月12日
     そ第156話② ◎第156話 第156話 ◎第80話 第80話

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく

 

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