本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性2 そ第156話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2(1)光秀の素性3 そ第156話②
はじめに ←目次
←その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
そ第156話②
【参照】 ←◎第156話 ←第156話
【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話②
道三の下剋上1 頼純の反撃 2/2
天文三年1534、織田信長が生まれた。
五月十二日。
尾張の戦国大名、織田信秀の嫡男として。
フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
五月は、小の月(二十九日まで)。
逆算すれば、そうなる。
而して領内の諸国に布告し、市町村においては男女貴賤悉(ことごと)く
彼の生まれた五月の日にかの寺院の来って同所に収めた己の神体を拝む
ことを命じた。
諸国より集まった人数は非常に多く、ほとんど信ぜられざるもので
あった。
信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主であるデウス
のみに帰すべきものを奪はんとしたため、
デウスはかくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ
給はず、
安土山においてこの祭りを行った後十九日を経て、
その体は塵となり灰となって地に帰し、
その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
【重史052】(「イエズス会日本年報」)
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 ◎第80話 第80話
光秀は、信長より十±四歳ぐらい年上である。
大永四年1524±四年の生れとすれば、そうなる。
【参照】11光秀の年齢 5結論
そ第77話 ←◎第77話 ←第77話
☆光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
この年齢差が、本能寺の変の一因になった。
人間は、歳の多い順から、死んでいく。
光秀が、先。
信長は、後。
これが、自然の摂理。
「是非に及ばず」
このことが、光秀を追い込んでいく。
天文四年1535、土岐頼純の反撃が始まった。
頼純、十二歳の時。
再び、戦いが始まった。
朝倉孝景が頼純に援軍を派した。
頼純の母は、孝景の妹。
美濃は、内乱状態になった。
土岐頼芸・道三 ✖ 土岐頼純・朝倉氏・六角氏
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 第81話
【参照】そ第155話① 越前朝倉氏
【参照】そ第155話② 大永四年1524 頼純が生まれた。
【参照】その一因 2(2)光秀の年齢 3光秀と土岐氏
そ第72話 永正十四年1517~天文十九年1550
←◎第72話 ←第72話
【参照】16 光秀の雌伏時代 5 遊行上人
第203話 頼純の反撃~永禄十一年1568
光秀は、まだ、頼純に仕えていない。
光秀は、頼純と同じぐらいの年頃。
この時は、十二±四歳ぐらい。
これでは、まだ早い。
家臣としては、若すぎよう。
天文六年1537
頼芸方(道三)と頼純が、和睦した。
美濃に、平和が訪れた。
「なれど、火種は消えず」
暫し、不安定な状態がつづく。
長井新九郎規秀(道三)は、斎藤新九郎利政に名を改めた。
「彼の者、斎藤同名に成りあかり」(「春日文書」) 。 →【重史024】
【参照】そ第156話① 「春日文書」
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 ◎第79話 第79話
⇒ 次へつづく
