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本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性2 そ第155話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性2 そ第155話② 

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その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ← 
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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ第155話②

 【参照】 ←◎第155話 ←第155話
 【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
      1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
      2争乱 そ第155話① そ第155話② そ第156話①

「美濃の争乱」2 頼純の誕生

 永正十六年1519
 
土岐政房、没。

 ここで、流れが変わった。
 斎藤利良(としなが)は、この機を逃さなかった。

 朝倉孝景がこれを支援した 。
 兵、三千。
 軍勢を派す。

 激しい戦いがあった。

  濃州に於いて、新四郎(利良)、越前より入国時、
  両方合戦、死亡の輩、数百人、

  (裏書)
  「 永正十六、九の下旬比(頃)より、
    濃州は、越前より、新四郎入国、
    朝倉合力、同名孫八大将にて、
    山崎衆已下、三千ばかりにて合力 」
                         (「東寺過去帳」) 

 利良は、美濃に帰国した 。
 汾陽寺に、禁制を掲げている(岐阜県関市武芸川町谷口)。

    禁制         汾陽寺
  一、軍勢乱入狼藉の事、
  一、軍勢押而(おして)執陣の事、
  一、兵粮米を懸ける事、
  一、伐採竹木の事、
  一、放火の事、
   右、若(も)し、違犯有るの輩は、速やかに厳科に処すべき者なり、
   仍って、下知、件(くだん)の如し、

     永正十六年九月日      藤原利良(花押)
                         (「汾陽寺文書」)

 その後、だろう。
 頼武は、ようやく、入国することが出来た。
 美濃の守護に復帰。
 孝景の後ろ楯があったればこそ、である。 

 以後、暫し、平穏の時期がつづく。

  【参照】9光秀という男 7美濃の争乱
      第63話 永正十四年1517~永正十六年1519

  【参照】16 光秀の雌伏時代 5 遊行上人
      第202話 永正十四年1517~大永五年1525

  【参照】その一因 2(2)光秀の年齢 3光秀と土岐氏
      そ第72話 永正十四年1517~天文十九年1550
                         ◎第72話 第72話

 大永四年1524
 
土岐頼武に、嫡男頼純が生まれた。
 母は、孝景の妹。
 土岐・朝倉、両氏の絆の結晶である。

 ところが、平和は、長続はきせず・・・・・。

 大永五年1525
 
長井長弘と新左衛門が、巻き返しを図った。
 美濃は、大乱となった。
 頼芸派が大勝した。

 頼武は、行方知れず(没落)。
 斎藤利良、死す。

 頼純は、まだ赤子だった。

 長井長弘・長井新左衛門が美濃の実権を奪取した。
 新左衛門は、着々と勢力を伸ばした。
 土岐頼芸が美濃の守護に就いた。
 新左衛門は、頼芸の直臣に取り立てられた。
 新左衛門の野望は、止まるところを知らず。

  【参照】9光秀という男 7美濃の争乱
      第64話 大永四年1524~大永五年1525

同じ頃、光秀が生まれた。

 光秀は、大永四年1524±四年頃の生れと考える。

  【参照】11光秀の年齢 5結論 
   第77話 光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

 光秀は、長じて後、この頼純の家臣となる。
 「土岐の随分衆なり」
  →【重史002】
   【参照】「立入左京亮入道隆佐記」
       そ第53話 ←◎第53話 ←第53話 

 後の、光秀と越前の関係を考えれば、そう、なるのではないだろうか。



 ⇒ 次へつづく

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