本能寺の変1582 【重史014】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史014】『日本史』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251024
【重史014】
①安土を去った明智の武将は坂本に立て籠ったが、
②そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。
③同所へ羽柴の軍勢が到着したが、
④すべての婦女子を殺害した後・・・自分らは切腹した。
⑤その時、明智の二子が死んだが、
⑥(光秀の)長男は十三歳であった。
『日本史』
天正十年1582、六月十三日。 158200613
光秀の嫡男光慶は、十三歳。 →【人物】
光秀は、山崎の合戦で秀吉に敗れ、坂本へ向かう途中で亡くなった。
次の場面は、その後の坂本城の様子である。
この中に、光慶の年齢が書かれている。
安土を去った明智の武将は坂本に立て籠ったが、
そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。
次の火曜日には同所へ羽柴の軍勢が到着したが、
すでに多数の者は城から逃亡していた。
そこでかの武将および他の武将らは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が
最初に入城した者の先発者であるのを見ると、
「高山、ここへ参れ、貴公を金持ちにして進ぜよう」と呼びかけ、
多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めた。
そしてそれを終えると、貴公らの手に落ちると考えることなかれと
言いつつ、最高の塔に立て籠り、内部に入ったまま、
彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。
その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、
ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、
長男は十三歳であった。
(『日本史』)
【人物】ルイス・フロイス →【人物】
フロイスは、イエズス会の宣教師。
『日本史』を世に残した。
西洋人の目から見た、当時の、この国の実態がよくわかる。
貴重な史料である。
信長の二つ上。
同世代である。
信長は、遥か彼方の異国の地から、怒涛逆巻く、万里の大海を乗り
越えてやって来た彼らの勇気に感嘆し、尊崇の念を以って、温かく
迎えた。
その親交については、多くの人の知るところである。
以下、その略歴を示す。
1532(天文元年)、ポルトガルのリスボンに生まれた。
1563(永禄六年)、布教のため来日。
1565(同八年)、入京。
1569(同十二年)、信長に会う。
1576(天正四年)、九州に転じる(豊後)。
後任は、オルガンティーノ。
1581(同九年)、三月、巡察師ヴァリニャーノとともに、京へ。
信長と再会、大歓迎を受ける。
秋、九州へ帰る。
1582(同十年)、本能寺の変、勃発。
1583(同十一年)、『日本史』の執筆に着手。
1597(慶長二年)、未完のまま、長崎にて没 (享年65) 。
【引用】【四国問題】 天正十年1582 五月十二日
そ第7話②
◎第7話 第7話 そ第11話㉗
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
