本能寺の変1582 【重史213】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史213】 「志岐文書」
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史213】
①今度、淡州の儀、皆相済ませ申し候、
②阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
③即時に、両国残さず一着候ように仰せ付けられるべく候、
④慥(たし)かに、申し届くべきの通り、 上意候間、
「志岐文書」
天正九年1581、十一月二十三日。 158101123
信長は、淡路島を手に入れた。
これで、四国作戦の強力な支援体制が出来上がった。
のみならず、
信長は、西方へ制海権を拡大した。
この段階では、まだ、播磨灘の東半分ぐらいまでか。
そして、さらに、西へ。
信長は、三好康長に阿波(北部)・讃岐の平定を命じた。
正式には、ここからである。
阿波については、北部のみ。
信長は、「三好」の名を重要視していた。
信長は、ここを基盤として四国を統一するつもりだった。
そういうこと、なのだろう。
以下は、松井友閑が、讃岐の安富氏に、信長の命令(上意)を伝えるため
に送った書状である。
今度、淡州の儀、皆相済ませ申し候、
様子に於ては、其の隠し有るべからずに候、
其に就いて、
阿・讃の儀、三好山城守、弥(いよいよ)、仰せつけられ候、
信長は、長宗我部元親の領地を阿波南半国と土佐一国のみとした。
「予州・讃州、上表申し」
「阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし」 →【重史181】
但し、元親本人は、これに納得していない。
「四国御儀は、某が手柄を以って、切り取り申す事に候」→【重史190】
信長は、三好康長の支援体制を構築した。
そういうことになる。
秀吉は、播磨から。
秀吉は、最も、近い距離にいた。
淡路島を手に入れ、制海権を確保したことにより、阿波に対する、
兵站が、きわめて、容易になった。
松井友閑は、堺から。
阿波・讃岐の国人等に、信長の命(上意)を伝える。
其の刻、御人数、一廉相副えられ、
即時に、両国残さず一着候ように仰せ付けられるべく候、
其の意を得らるべきの旨、
慥(たし)かに、申し届くべきの通り、 上意候間、
其元、御馳走、憑み候、
尤も御用に候、
猶、追々申すべく候、
恐々謹言、
宮内卿法印
十一月廿三日 友感(花押)
安富筑後守殿
安富又次郎殿
御宿所
「志岐文書」「戦国遺文三好編」1919
おそらく、これと同様の書状が、阿波・讃岐の、他の国人衆へも送られた
ものと思う。
となれば、・・・・・。
長宗我部元親の侵攻により、新たに、その配下に組み込まれた者たちが
動揺する。
そして、その矛先が、・・・・・。
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
