本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑫ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑫
2光秀の年齢 6人格形成
はじめに ←目次 ←その一因 目次大 目次中 一、光秀の年齢 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 重要史料 】 【 人物 】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 240728 240801 240809
そ第78話⑫ 同二十七日
【参照】 ←テ第78話 ←◎第78話 ←第78話
【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
そ第78話① そ第78話② そ第78話③ そ第78話④
そ第78話⑤ そ第78話⑥ そ第78話⑦ そ第78話⑧
そ第78話⑨ そ第78話⑩ そ第78話⑪
同、二十七日
光秀は、愛宕山へ。
山上より、京を見下ろす。
次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。
一宿参籠致し、惟任日向守、心持御座候や、
神前へ参り、太郎坊の御前にて、
二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
【 重史 031】(『信長公記』)
信長は、無警戒だった。
「上洛」
「宿所は、本能寺」
おそらく、信長は、その旨を、村井貞勝へ連絡した・・・・・。
貞勝は、京都所司代。
いつもの通りに、ことは、流れて行く。
情報は、公開されていた。
また、家康のこともある。
隠す必要など、全く、なかった。
むしろ、その逆。
貞勝から、関係各所へ、速やかに、伝達されたものと思う。
貞勝は、京の広報官でもある。
その証拠に、同二十九日、信長の上洛を出迎えるため 、
多くの公家たちが、山科付近で、これを待っていた。
上洛は、申の刻16時頃だったという(「兼見卿記」) 。
「同別本」 には、未の刻14時頃とある。
信忠は、京で、信長の上洛を待っていた。
信忠は、家康とともに、京にいた。
情報源は、村井貞勝か。
信長の上洛を知った。
以下は、信忠が、安土の森成利(乱丸)に送った書状。
「中国表、近々、御馬出さるべきの由候条」、とある。
信忠は、堺には行かず、京に居残ることを決めた。
使者の通ったルートは、わからない。
最短は、京→坂本→安土 である。
尚々、家康は、明日大坂・堺に罷り下られ候
中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
此旨、早々、御諚を得られ、申し越さるべく、
委曲の様躰、使に申し含め候条、口上に申すべく候、
謹言、
五月廿七日 信忠(花押)
森乱殿
【 重史 028】(「小畠文書」)
光秀は、信長の上洛情報を入手した。
光秀は、聡い男。
万事につき、抜かりはない。
京にも、坂本にも、安土にも、・・・・・。
万全な情報網を構築していた。
おそらく、同じ頃。
光秀は、そのことを知った。
とすれば、愛宕山の山中か、山上で、と言うことになる。
なれど、光秀は、用心深い。
光秀は、冷静だった。
「近々」、とある。
これは、予告。
あくまでも、予定。
変更など、よくあること。
その時に、なってみなければ、わからない。
したがって、安易に、これを信用せず。
次の報せを、待つ。
光秀は、堪えた。
石谷頼辰、未だ、帰還せず。
これが、二十七日。
⇒ 次へつづく
