本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話③
2光秀の年齢 6人格形成
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そ第78話③ 四月二十一日 同二十四日
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【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
そ第78話① ←そ第78話② ←
光秀は、先を急いでいた。
光秀は、高齢だった。
己の「老い」を自覚していた。
残された時間は、短い。
このことが、光秀に、先を急がせた。
四月二十一日
信長は、安土に帰陣した。
四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
ろくの渡りにて、御座船飾り、稲葉伊予(良通)、一献進上なり。
捶井(垂井)に御屋形立ておき、こぼう殿(織田信房)、一献御進上侯
なり。
今洲(今須)に御茶屋立てて、不破彦三(直光)、一献進上侯なり。
柏原に御茶屋拵らへ、菅屋九右衛門(長頼)、一献進上なり。
佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)、一献進上。
山崎に御茶屋立ておき(滋賀県彦根市里根町)、山崎源太左衛門(秀家)、
一献進上侯なり。
今度、京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
御陣御見舞の面々、門前市をなす事に侯。
路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
誠に、御威光有りがたき御代なり。
四月廿一日、安土に御帰陣。
【 重史 035】(『信長公記』)
【参照】【 重史 034】 三月五日、出陣。
信長も、先を急いでいた。
この年、四十九歳。
目的意識の強い男。
「人間五十年」
それまでに、・・・・・。
「天下統一」は、成る。
信長に、休む間など、ない。
同、二十四日
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
だが、信長は、これを、大幅に、修正・変更。
その時を、早めようとしていた。
秀吉は、備中にいた。
「毛利本軍を誘き出す」
これが、その役目。
信長は、出陣の機を窺っていた。
秀吉からの報せを待つ。
以下は、信長が、細川藤孝に宛てた書状。
「準備せよ」、と命じている。
光秀は、藤孝の上席者。
これを、伝達した。
中国進発の事、来秋たるべきの処、
今度、小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
由断なく、用意専一に候、
猶、惟任日向守、申すべく候也、
謹言
四月廿四日 信長(朱印)
一色五郎殿
長岡兵部大輔殿
【 重史 036】(「細川家文書」)
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