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本能寺の変1582 【重史227】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史227】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史227】

①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、

②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。

③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。

④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、

⑤中国の歴々討ち果たし、

⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、

⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、

                      『信長公記』


 天正十年1582、五月中頃。
            1582005**

 秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。

 「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」

  中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
  すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落し、数多討ち捕り、
  並びに、ゑつたが城へ、又、取り懸け侯ところ、降参申し、
  罷り退き、
  高松の城へ一所に楯籠るなり。

  又、高松へ取り詰め、見下墨(みさげすみ)、
  くも津川・ゑつた川、両河を関切り、水を湛へ、
  水攻めに申しつけられ候。

 そこに、毛利の本軍が現れた。

  芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
                    【 重史 020】(『信長公記』)

 信長は、この好機を逃さない。
 即座に、決断した。

  信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、
  今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
  御動座なされ、

 信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
 さらに、九州を平定しようとしていた。

  中国の歴々討ち果たし、 
  九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
  
上意にて、
  堀久太郎(秀治)御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、

 信長は、光秀に出陣を命じた。

  惟任日向守・長岡与一郎(忠興)・池田勝三郎(恒興)・塩河吉(橘)大夫・
  高山右近(重友)・中川瀬兵衛(清秀)、
  先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
                    【 重 史 021】(『信長公記』)


 【引用】【 重史 020】 【 重 史 021】 ◎第74話 そ第78話⑦

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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