本能寺の変1582 【四国問題】 十 251011 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】 天正十年1582 251011
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250922 251001 251011
天正十年1582 251011
一月十一日 【重史174】 ✓ 天正10 158200111
信長は、元親に朱印状を送った。
信長は、己の命に従わぬ者を容赦しない。
「阿波南郡半国」を取り止めた。
元親には、「土佐一国」のみとした。
①空然(石谷光政) 人々御中
②尚々、御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、
③始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、
「石谷家文書」
【参照】
【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
【重史213】 阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
【重史012】 其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻~
【重史042】 ~うしきの城・仁宇南方、残らず明け退き申し候、
二月一日 【重史046】 公 天正10 158200201
木曾義昌が裏切った(武田→織田)。
二月三日 【重史046】 公 天正10 158200203
信長は、出陣命令を下した。
「甲斐へ」
攻め口は、四つ。
信忠を総大将とする先陣部隊が出発した。
①二月朔日、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候
②二月二日、武田四郎父子・典厩(武田信豊)、木曽謀叛の由承り、
③二月三日、信長公、諸口に出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
④二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
『信長公記』
二月九日 【重史047】 公 天正10 158200209
信長は、甲斐出陣にあたり、十一ヶ条の条書を発した(①~⑪) 。
三好康長は、四国へ出陣すること。
光秀は、出陣すること。
①二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
②三好山城守、四国へ出陣すべきの事。
③惟任日向守、出陣の用意すべき事。
『信長公記』
三月五日 【重史034】 公 天正10 158200305
信長は、安土を発った。
三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
『信長公記』
三月十一日 【重史170】 公 天正10 15600311
武田勝頼の最期。
①三月十一日、武田四郎父子、簾中、一門、
②こがつこ(駒飼)の山中へ引籠らるゝの由、
③三月十一日、巳の刻、各、相伴、討死なり。
④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
『信長公記』
三月十七日 【重史018】 ✓ 天正10 158200317
信長は、己の勢威の強大さに驚いた。
①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
③典厩(信豊)の事、是も首到来、
④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、
⑤甲州の歴々の者ども、大略首を刎ね候、
⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、
⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
我ながら驚き入る計りに候、
「武家事紀」1/2
信長は、絶対的な武力を手に入れた。
「戦わずして、勝つ」
これが、武田効果。
【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
そ第74話② 武田効果
【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話
信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」
〃 〃 【 重史 019】 ✓ 天正10 158200317
信長の強大さは、瞬く間に、諸国に知れ渡った。
抗えば、滅す。
「あの武田が、・・・・・」
中国 毛利は、戦慄した。
四国 長宗我部、これに同じ。
⑧相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
⑨甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
⑩路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
⑪京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
「武家事紀」2/2
光秀は、現役の戦国武将。
⑩老足(老人)では、ない。
光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話
四月二十一日 【重史035】 公 天正10 158200421
信長は、安土に凱旋した。
四月廿一日、安土に御帰陣。
『信長公記』
四月二十四日 【重史036】 ✓ 天正10 158200421
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
①中国進発の事、来秋たるべきの処、
②重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
③猶、惟任日向守、申すべく候也、
「細川家文書」
五月七日 【重史012】 ✓ 天正10 158200507
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。
①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
③阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
④其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事、
⑤万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、
「寺尾菊子氏所蔵文書」
五月十一日 【重史225】 公 天正10 158200511
信長は、信孝に、阿波・讃岐 二ヶ国を与えるつもりだった。【重史012】
信孝は、四国渡海の準備に入った。
「阿波国、神戸三七御拝領の事」
①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
『信長公記』
信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。 ポ02③
「信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
淡路島にて、決める、と言っている。 →ポ02② 【重史012】
元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。 ポ02③
故に、間に合ったとしても、「土佐一国」。
それ以上は、有り得ない。
信長は、誇り高い男。 【信長の人物像】 信03
己の命に従わぬ者には、容赦しない。
元親は、土佐を失う可能性すらあった。 ポ02③
間に合わなければ、さらなる減封。
最悪、「没収」も有り得た。
信長は、元親の名を記せず。 【重史012】
となれば、国主は、余人。
そういうこと、である。
信長は、待った。 ポ02③
「なれど、遅い」
遅すぎた。
石谷頼辰は、未だ、帰らず。
このままでは、失敗。
光秀は、信長の「信」を失う。
・・・・・。
信長は、何も言わず。
容赦なく、時は流れて行く。
信長は、執念深い。
このことを、決して、忘れない。 【信長の人物像】 信03
五月十五日 【重史226】 公 天正10 158200515
徳川家康が、安土に到着した。
信長は、これを大いに歓待した。
宿所は、大宝坊。
接待役は、明智光秀。
この日から十七日までのことである。
①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
②其の御礼として、徳川家康公幷びに穴山梅雪、今度、上国候。
③五月十四日、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
④同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、
⑤五月十五日、家康公、安土に至りて御参着。
⑥御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
⑦十五日より十七日まで、三日の御事なり。
『信長公記』
五月中頃 【重史040】 ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」1/2
①その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
②これらの催し事の準備について、
③信長は、ある密室において、明智と語っていた
④反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
⑤信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
『日本史』
〃 〃 【重史041】 ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」2/2
①明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲した
②過度の利欲と野心が募りに募り、
③それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになった
④企てた陰謀を果たす適当な時期を、ひたすら窺っていた
『日本史』
〃 〃 【重史227】 公 天正10 1582005**
秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。
「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」
そこに、毛利の本軍が現れた。
信長は、この好機を逃さない。
即座に、決断した。
信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
さらに、九州を平定しようとしていた。
信長は、光秀に出陣を命じた。
①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
⑤中国の歴々討ち果たし、
⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
『信長公記』
五月十七日 【重史029】 公 天正10 158200517 訣別の日。
光秀は、饗応役の任を解かれた。
この日が、信長との最後になった。
出陣支度のため、坂本城に帰った。
五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
『信長公記』
光秀は、石谷頼辰の帰りを待っていた。
「一縷の望み」
他に、打つ手がなかった。
土佐は、僻遠の彼方。
片道だけでも、一ヶ月ほど時間を要した。
頼辰の着日は、おそらく、月末。
否、六月・・・・・。
【参照】そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話
信長は、必ず、上洛する。
「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。 【重史012】五月七日
ならば、その前。
この月末・・・・・。
光秀は、そう見ていた。
光秀は、肚を決めた。
間に合えば、・・・・・。
間に合わぬ時は、・・・・・。
なれど、・・・・・。
五月十九日 【重史228】 公 天正10 158200519 信長は、家康のために、能舞を興行した。
「幸若大夫・梅若大夫の事」
①五月十九日、安土御山惣見寺において、
②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
『信長公記』
信長は、中国出陣を控え、気が立っていた。 【重史227】
梅若大夫を折檻。
信長は、誇り高い男。 【信長の人物像】 信03
世間の評判を気にした。
そこに、「隙」が生まれた。
光秀は、これを見逃さない。
五月二十日 【重史229】 公 天正10 158200520
信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
高雲寺御殿にて、饗応。
信長は、自らが、御膳を運び入れた。
①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
②御座敷は、高雲寺御殿、
③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
『信長公記』
五月二十一日 【重史230】 公 天正10 158200521
(十日前)
家康、上洛。
信長は、家康を京都・大坂・奈良・堺の見物に案内した。
「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」
①五月廿一日、家康公御上洛。
②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
③案内人は、長谷川秀一。
④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
『信長公記』
〃 〃 【重史231】 ✓ 天正10 158200521
この時、家康とともに、信忠も上洛している。
①信長の長男(信忠)が都に到着し、
②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
『日本史』
〃 〃 【重史232】 ✓ 天正10 158200521
信忠は、中国出陣を控えていた。
「天下布武」
おそらくは、その総仕上げとなったであろう大戦。
脳裏にあるのは、「武田勝頼の首」。 【重史170】
信忠は、大きな手柄を上げた。
ならば、出立前に・・・・・。
そう、思っていたのだろう。
①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
「イエズス会日本年報」
〃 〃 【重史042】 ✓ 天正10 158200521
元親は、信長の命を受け入れた。
石谷頼辰は、土佐にいた。
「武田滅亡」
結局、これが、決め手になった。
「武田効果」、である。
①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
「石谷家文書」
だが、残念ながら、遅すぎた。
結果、間に合わず。
信長は、すでに、動き出していた。
「四国出陣命令」 【 重史 012 】五月七日
元親は、未だ、これを知らず。
五月二十六日 【重史030】 公 天正10 158200526
(五日前)
光秀は、坂本から丹波亀山城へ移った。
①五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、
②坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。
『信長公記』
五月二十七日 【重史028】 ✓ 天正10 158200527
(四日前)
信忠は、信長の上洛を待っていた。
①家康は、明日、大坂・堺に罷り下られ候、
②中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
③我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
④一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
「小畠文書」
①家康は、明日(二十八日)、大坂・堺へ下向する。
信忠は、一人、京に残る。
②信長は、「近々」、中国へ出陣する。
近日中・・・・・。
否、数日中・・・・・。
その日が、近づいていた。
何やら、急に、慌ただしくなって来た。
③信忠は、それより前に、出陣するつもりだった。
「堺見物」などしている場合はない、ということ。
時の流れが、一段と、速さを増す。
④信長は、「一両日中に」、上洛する。
すなわち、今日・明日・明後日のうち。
秀吉から、新たな注進があったのだろう。
事態は、いよいよ、差し迫って来た。
〃 〃 【重史233】 公 天正10 158200527
光秀は、戦勝を祈願するため愛宕山に参詣した。
①次の日、廿七日に、亀山より、愛宕山へ仏詣。
②一宿参籠致し、
③惟任日向守、心持御座候や、
④二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
『信長公記』
光秀は、山上から、京の都を見下ろした。
「本能寺」
信長は、急いている。
そこに、毛利の本軍が現れた。 →【重史227】
信長は、気が立っていた。 →五月十九日【重史228】
梅若大夫を折檻。
信忠は、家康とともに京にいる。
少人数で。 →五月二十一日【重史230】 【重史231】
信長は、中国へ出陣する。
「信長、淡州に至って出馬の刻」 →五月七日【重史012】
その前に、必ず、上洛する。 →五月十七日【重史029】
おそらく、少人数で。
なれど、いつ・・・・・。
光秀は、六月一日夜、出陣する。
石谷頼辰、未だ、帰らず。 →そ第74話②
「間に合わぬ」
すなわち、交渉失敗。
「万事休す」
光秀は、絶体絶命の窮地に追い込まれた。
そこに、・・・・・。
五月二十八日 【重史234】 公 天正10 158200528
(三日前)
光秀は、愛宕山西坊にて連歌会を催した。
①廿八日、西坊にて連歌興行。
②ときは今、あめが下知る五月哉
③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
『信長公記』
〃 〃 【重史005】 ✓ 天正10 158200528
今は、雨の降る五月である。
「時」、あめ「雨」、「下なる」。
これが、正しい。
そう、考える。
①時は今、あめか下なる五月かな、 光秀
②国々は、猶、長閑なる時、 光慶
「続群書類従」
光秀は、出来る男。
キレ者である。
光秀は、典型的な戦国武将。
注意深く、用心深い。
それ故、信長に抜擢された。
そのような男が、このタイミングで、これほどの大事・秘事を、それも、
外部の人間に、しかも複数人に、話さねばならぬ理由(わけ)がない。
冷静に考えれば、わかることである。
秀吉は、狡猾な男。
抜け目がない。
これを、上手に、すり替えた。
とき「土岐」、あめ「天」、したしる「下知る」。
こじ付けである。
「捏造」
己の野望をカモフラージュした。
何しろ、天下・国家を揺るがす大事件。
多くの人々が、これに騙された。
「歴史は、勝者によってつくられる」、である。
そして、その様な状態が、秀吉の時代から、江戸時代へ、さらに、明治・大正・昭和・平成を経て、現在までつづいている。
真実は、一つ。
覚醒すべし!!
〃 〃 【重史032】 ✓ 天正10 158200528
これが、全ての元凶となった。
①惟任(光秀)、・・・備中に下らずして、密かに謀反をた工む、
②年来の逆意、識察する所なり、
③ときは今、あめかしたしる五月かな、
④今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
⑤天正十年六月朔日、夜半より、
「惟任退治記」
秀吉は、実に、素早かった。
本能寺の変 六月二日。
山崎の合戦 同十三日。
その、直後。
十月には、すでに、この書が、世の出ていたという。
「惟任退治記」は、創作物。
信長亡き後の、秀吉の行動を、美化・正当化するために書かれた宣伝本。
フィクション部分が多い。
今風に言えば、政府発表の公文書の如きもの。
瞬く間に、世に広まった。
秀吉は、歴史を捏造した。
秀吉は、これを利用して、言葉巧みに、大衆を丸め込んだ。
狡猾で、抜け目のない男である。
秀吉は、光秀が、己の心中を、事前に、外部の人間に漏らした、
と言っている。
秀吉は、光秀を利用した。
「死人に口なし」
光秀は、冥途の彼方へ。
秀吉は、天下を狙っていた。
「明々白々」
やがて、織田家を乗っ取った。
これもまた、「下剋上」。
その様な時代だった。
同、二十八日
家康が、大坂へ向かった。 →五月二十七日【重史028】
信忠は、京に残った。
五月二十九日 【重史033】 公 天正10 158200529
信長が、上洛した。
①五月廿九日、信長公、御上洛。
②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
③直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
④今度は、御伴これなし。
『信長公記』
従うのは、小姓衆のみ。
信長は、中国へ出陣するつもりだった。
信長は、軍勢を京に入れず。
安土に残した。
信長は、家康に配慮した。
家康は、暗殺を怖れていた (『日本史』「本城惣右衛門覚書」) 。
信長は、自身を警固する軍勢を伴っていなかった。
信長は、「油断」した。
「一世一代の不覚」
結果として、そうなる。
光秀は、信長の性格をよく知っている。
斯くなることを予測していた。
光秀は、道中で目にした。
駿河・遠江・三河は、家康の領地。
甲斐からの帰路、そこを、通った時のこと。
信長は、供廻りを最小限にした。
①『信長公記』 天正十年1582、三月二十八・二十九日条。
②『信長公記』 天正十年1582、四月十六日条。
これ、すなわち、「配慮」。
家康を信用しているという、意思表示。
今度(こたび)も、それに同じ。
時は、戦国時代。
生と死は、紙一重。
油断=死。
「相互不信」の時代だった。
そして、家康が、少人数で安土を訪れた。
これもまた、信長を信用しているの証。
否、そうせねばならなかった。
何しろ、信長は、猜疑心の強い男。
疑われれば、潰される・・・・・。
恐ろしい時代だった。
そして、再び、信長の番となる。
信長は、これに、応えねばならなかった。
となれば、・・・・・。
「都には、軍勢を入れぬ」
否、「入れるわけには、いかぬ」のである。
光秀は、聡明な男。
そう、見ていた。
斯くなれば、
「丸裸」・・・・・。
そして、正に、その通りになった。
⇒ 次へつづく
