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本能寺の変1582 【重史229】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史229】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史229】

①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、

②御座敷は、高雲寺御殿、

③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆

④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、

⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、

                      『信長公記』


 天正十年1582、五月二十日。
            158200520

 信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
 高雲寺御殿にて、饗応。
 信長は、丹羽長秀・堀秀政・長谷川秀一・菅屋長頼ら四人に、その役目
 を命じた。
 
  五月廿日、
  惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷玖右衛門四人に、
  徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
  御座敷は、高雲寺御殿、
  家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、此の外、家老の衆に御食
  を下され、

 信長は、自らが、御膳を運び入れた。
 これ以上の心配りが他にあろうか。
 
  忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、御崇敬斜ならず。
 
  御食過ぎ候て、
  家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
  御帷(かたびら)下され、御馳走申すばかりなし。
                          (『信長公記』)


 【引用】【四国問題】 天正十年1582


 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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