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本能寺の変1582 【重史228】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史228】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史228】

①五月十九日、安土御山惣見寺において、

②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、

③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、

④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、

⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・

⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、

                      『信長公記』


 天正十年1582、五月十九日。
            158200519

 信長は、家康を大いに歓待した。
 
摠見寺において、能・舞を興行。

 「幸若大夫・梅若大夫の事」

  五月十九日、
  安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、

  次の日は、
  四座(よざ=大和猿楽の観世・宝生・金剛・金春)の内は、珍しからず、
  丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、

  家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
  見物させ申さるべき旨、上意にて、

  御桟敷の内、
  近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
  (楠)長安・長雲(長雲軒妙相)・(松井)友閑・(武井)夕庵。
 
  御芝居(=土間)は、御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆
  ばかりなり。

 信長は、中国出陣を控えていた。           【重史227】
 そのことが、ある。

 信長は、気が立っていた。
 梅若大夫を折檻した。
 
  初めの舞は、大職冠、二番田歌、舞よく出来候て、御機嫌斜ならず。

  御能は、翌日仰せつけらるべしと、御諚候ひつるが、
  日高に舞ひ過ぎ候に依りて、
  其の日、梅若大夫御能仕り候。
  折節、御能、不出来に、見苦敷(みぐるしき)候て、
  梅若大夫を御折濫なされ、御腹立ち大形ならず、

 信長は、幸若大夫に褒美を与えた。
 
  幸若八郎九郎大夫居申し候額屋へ、
  御使 菅屋玖右衛門・長谷川竹両使を以て、
  忝くも上意の趣、能の跡にて舞を仕り候事、
  本式に非ずと雖も、御所望に候間、
  今一番仕り候へと、仰せ出だされ候。
 
  此の時、和田醼(さかもり=酒盛)を舞ひ申し候。
  又、勝(すぐ)れて出来、御機嫌直り、
  爰にて、森乱御使にて、幸若大夫御前へ召し出だされ、
  御褒美として、黄金拾枚下さる。
  面目と云ひ、外聞実儀、忝く頂戴なり。

 信長は、誇り高い男。           【信長の人物像】 信03
 世間の評判を気にした。
 
  次に、梅若大夫、御能悪(あし)く仕る事、
  曲事におぼしめされ候へども、
  黄金拘(かか)へ惜しむの様に、
  世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
  右の趣、条々仰せ聞かされ、
  其の後、梅若大夫にも金子拾枚下さる。
  過分、忝き次第なり。
                           (『信長公記』)


 【引用】


 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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