本能寺の変1582 【四国問題】 十 4月21日 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】天正十年1582 4月21日
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
天正十年1582
4月21日 【重史035】 公 天正10 158200421
信長は、安土に凱旋した。
途中、各所で、大勢の家臣らの出迎えをうけた。
①四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
②ろくの渡りにて、御座船飾り、
③捶井(垂井)に御屋形立ておき、
④今洲(今須)に御茶屋立てて、
⑤柏原に御茶屋拵らへ、
⑥佐和山に御茶屋立て、
⑦山崎に御茶屋立ておき、
⑧京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
⑨御陣御見舞の面々、門前市をなす事に候。
⑩路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
⑪誠に、御威光有りがたき御代なり。
⑫四月廿一日、安土に御帰陣。
『信長公記』
さながら、雲の上を歩むが如し。
心地いい。
勝利の余韻が、まだ、尾を引いていた。
安土城は、新緑の中に聳え立つ。
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