本能寺の変1582 【四国】 十 0511 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】天正十年1582 5月11日
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
天正十年1582 5月11日
5月11日 【重史225】 公 天正10 158200511
信孝は、四国渡海の準備に入った。
「阿波国、神戸三七御拝領の事」
①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
『信長公記』
信孝は、阿波・讃岐 二ヶ国の新たな国主となる。
【参照】【重史012】②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。
「信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
淡路島にて、決める、と言っている。
元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。
故に、間に合ったとしても、「土佐一国」。
それ以上は、有り得ない。
信長は、誇り高い男。
己の命に従わぬ者には、容赦しない。
【参照】【信長の人物像】 信03
元親は、土佐を失う可能性すらあった。
間に合わなければ、さらなる減封。
最悪、「没収」も有り得た。
信長は、元親の名を記せず。
となれば、国主は、余人。
そういうこと、である。
信長は、待った。
「なれど、遅い」
遅すぎた。
【参照】ポ02③ 【重史012】
石谷頼辰は、未だ、帰らず。
このままでは、失敗。
光秀は、信長の「信」を失う。
・・・・・。
信長は、何も言わず。
容赦なく、時は流れて行く。
信長は、執念深い。
このことを、決して、忘れない。
⇒ 次へつづく
