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本能寺の変1582 【重史188】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史188】 「吉田文書」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史188】

①淡州野口(長宗)方の所来、

②此比、淡州の儀、如何、仰せ付けらるゝべく候、

③淡州の儀、仰せ下さるゝ次第、心懸け致すべく候哉、

                      「吉田文書」7/8


 天正八年1580、十一月二十四日。           158001124

 信長は、瀬戸内海の制海権を手に入れようとしていた。

 すなわち、水軍力の強化。

 秀吉、これに同じ。
 淡路島に手をつけた。
 秀吉は、同島南部の野口氏を味方につけた。

 7 一、淡州野口(長宗)方の所来、
    其元、(野口の)馳参、御許容に成らせられ候由に候、

 元親は、領土拡大意欲の強い男。
 淡路島に、野心があった。

    此比、淡州の儀、
    如何、仰せ付けらるゝべく候、
    御模様候哉、
    承り度(たく)存じ候、

 信長が、紀伊を攻める時には、・・・。

    紀州の儀、押し置かれ候はば、

 ・・・これに、呼応して、
 阿波・讃岐に攻め入り、瞬く間に、両国を制圧する。

    阿・讃両国、即時に、上り、行(てだて)に及び、相果すべく候条、

 その手柄として、
 淡路島を拝領したい。

    其の上に於いては、
    淡州の儀、仰せ下さるゝ次第、心懸け致すべく候哉、 
                 (「吉田文書」7/8「戦国遺文 三好編」)

 元親は、そう言っている。

 元親もまた、同じ穴の狢。
 典型的な戦国武将。
 「油断ならぬ相手」、なのである。

 秀吉は、元親の野心に気づいた。
 元親を危険人物と判断した。

 そして、
 そのことを、信長へ。
 これすなわち、報告。
 これを、「讒言」と言うべきか・・・・・。      →【重史181】

 否、秀吉と友閑は、親交がある。
 となれば、
 秀吉から、松井友閑→三好康長へ。          →【重史181】 
 そして、信長へ。

 というルートも、考えられる。
 
 否、両方から・・・・・。

 何れにしても、
 このことが、信長の耳に入った。           →【重史181】

 おそらく、この様なことがあった・・・・・。

 信長は、典型的な戦国武将。         →【信長の人物像】信02
 きわめて、猜疑心が強い男なのである。

 となれば、
 信長は、・・・・・。                →【重史181】

 これすなわち、元親の「油断」。           →【重史181】
 迂闊であった。
 つい、口(手)を滑らせてしまった。
 自業自得である。

 「元親記」の作者は、おそらく、このことを知らない。 →【重史181】


 【引用】

 【参照】【四国問題】 天正八年1580



 ⇒ 次へつづく

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