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本能寺の変1582 【重史186】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史186】 「土佐国蠧簡集」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史186】

①大坂存分に属するに就きて、

②伊予鷂(ハイタカ)、五居(すえ)到来、

③隣国との干戈(かんか=戦い)の事、

④彼是(かれこれ)、惟任日向守、申すべく候也、

                     「土佐国蠧簡集」


 天正八年1580、十二月二十五日。           158011225

 元親と信長の関係は、良好だった。
 この頃までは、・・・・・。
 で、ある。

 元親は、信長に伊予の鷂(ハイタカ)を献上した。
 すなわち、伊予へも、手を伸ばしているということ。
 その、自己アピール・・・・・。

  大坂存分に属するに就きて、音問(おんもん)、
  殊に、伊予鷂(ハイタカ)、五居(すえ)到来、
  遠境懇情、斜ならず候、

 信長は、四国への介入を強化した。
 「隣国との干戈の事」、とある。
 すなわち、元親の四国統一戦について。 
 とりわけ、阿波。

 光秀は、このことを元親へ。
 おそらく、使者は、石谷頼辰。

  隣国との干戈(かんか=戦い)の事、
  彼是(かれこれ)、惟任日向守、申すべく候也、

  謹言、
  十二月廿五日    信長
    長宗我部宮内少輔殿
              (「土佐国蠧簡集」「織田信長文書の研究」)

 元親の阿波統一が、大きく、遅れていた。

 これに、「大坂を逃げ下る牢人ども」の問題が重なった。
                           →【重史185】

 四国問題について、
 信長に、直接、状況報告・意見具申等、出来るのは、この三人。

 一に、明智光秀。
 二に、松井友閑。
←三好康長  →【重史182】 【重史183】 【重史184】
 三に、羽柴秀吉。

 光秀一人だけに、あらず。 

 信長は、四国政策を、 少しづつ、変更して行く。
 状況の変化に、応じて。

 当然のこと。 
 
 二人の関係に、ヒビが入り始めるのは、この辺りからである。


 【引用】


 【参照】【四国問題】 天正八年1580



 ⇒ 次へつづく

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