本能寺の変1582 【重史185】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史185】 「吉田文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史185】
①大坂を逃げ下る牢人ども、
②紀州(雑賀衆)・淡州(勢)相催し、
③阿州勝瑞へ渡られ、再籠に及び、
「吉田文書」3/8
天正八年1580、十一月二十四日。 158001124
時代は、激動していた。
石山本願寺、退城。 →そ第7話⑦『信長公記』
その波が、四国へ。
「大坂を逃げ下る牢人ども」
本願寺の残党たちである。
「蛛の子をちらすが如く」 →そ第7話⑦『信長公記』
彼らは、阿波へ迯げ込んだ。
雑賀衆・淡州勢と合流し、大きな勢力に膨れ上がっていた。
元親は、播磨の秀吉と連絡を取り合っていた。
以下は、天正八年十一月二十四日、元親が、秀吉に送った書状の一部3/8
である。
その時、元親は、讃岐に侵攻していた。
3 一、先度、在陣中より注進せしめ候如く、
讃州十河・羽床両城*取り詰め、落去半ば、
*十河城 香川県高松市十川東町
羽床城 香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下
勝瑞城 徳島県板野郡藍住町勝瑞
一宮城 徳島県徳島市一宮町
牛岐城 徳島県阿南市富岡町殿町
牢人どもは、勝瑞城に立て籠もった。
大坂を逃げ下る牢人ども、紀州(雑賀衆)・淡州(勢)相催し、
阿州勝瑞*へ渡られ、再籠に及び、
彼らは、元親方の城へ攻め寄せた。
一宮の城*を取り巻き候の条、
元親は、急ぎ、讃岐から阿波へ。
これを、救援。
合戦→勝利。
十河・羽床搦手には、対陣を付け置き、
一宮後巻として、阿州に至り馳せ向い候処、
此方(こなた)備、まちうけず、
敵、即ち、敗北し候、
追ひて、一戦に及ぶべき処、
ところが、阿波の南部でも、雑賀衆に同調する者たちが現れた。
阿州南方にこれ在る新開道善(牛岐城)*と申す者をはじめ、
雑賀の者に同心せしめ、
大都、敵心の輩これ在るに依り、軍利、計り難く、
元親は、牢人どもを勝瑞城へ追い込んだ。
先の謀叛の輩ども、或いは誅罰せしめ、或いは追討せしめ、
勝瑞一所に責め縮め、
方角要、要害・番手等、堅固に申し付け、
一旦、汗馬を休め候、
元親は、これらの敵にも対処せねばならなかった。
逆風が強まっていたわけである。
敵方の手に成る武篇においては、手に取り見究め申す間、
御心、易んずべく候、
(「吉田文書」3/8「戦国遺文 三好編」)
天正八年1580十一月の時点で。
元親の、阿波統一は、まだ遠し。
同じく、四国統一は、なお遠し。
の状態だった。
信長は、予定通りに、ことを進めていた。 →【重史181】
天正八年1580には、本願寺を降伏させ。
天正九年1581には、足元を堅め。
信長と元親の間には、スピードに、大きなズレが生じていた。
その差は、開くばかり。 →【重史181】
信長にとって、元親の重要度は、大きく下がっていた。 →【重史181】
信長は、四国への介入を次第に深めていく。
すなわち、「間に合わぬ」ということ。
その結末が、・・・・・。
天正十年三月、武田を滅ぼした後。
同五月七日の、四国出陣命令となる。
そして、・・・・・。
同五月十七日の、中国出陣命令へ。
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
