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本能寺の変1582 【重史189】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史189】 「吉田文書」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史189】

①善悪の御助言、(秀吉に)頼み奉る外他無く候、

②斎藤内蔵助方まで、申し登せ候間、

③自然(じねん)の時は、貴意を得らるべく候、

                      「吉田文書」8/8


 天正八年1580、十一月二十四日。           158001124

 元親は、秀吉という男の本性を未だ知らず。
 「油断」も「隙」もならぬ相手なのである。

 二人の間に、斎藤利三を立てていた。

 8 一、善悪の御助言、(秀吉に)頼み奉る外他無く候、
    無二の戦忠を抽んずべき覚悟迄、連々、存じ懸け候通り、
    斎藤内蔵助方まで、申し登せ候間、
    自然(じねん)の時は、貴意を得らるべく候、
    万端、口上、含め候、
    御意を得べく候、
    恐惶謹言、
              長宗我部宮内少輔
        霜月廿四日        元親
      羽柴筑前守殿
           人々御中 
                 (「吉田文書」8/8「戦国遺文 三好編」)

 光秀は、信長から、元親の取次に任じられた。     →【重史179】

 斎藤利三は、光秀の重臣。
 光秀は、この利三を元親の窓口に充てた。
 使者は、同じく、重臣 石谷頼辰。
 利三の実兄である。

 光秀 ⇄ 斎藤利三・石谷頼辰 ⇄ 長宗我部元親

 おそらく、以下の様な経緯があったのではなかろうか。

 元親から、申し出があった。
 光秀は、それを聞き入れた。
 光秀は、元親を秀吉に繋いだ。
 そして、二人の間に、利三を入れた。
 ・・・・・。

 したがって、
 元親と秀吉の結びつきは、
 当然のことながら、
 光秀と利三が掌握する上に、成立するものである。

 となれば、
 斎藤利三は、元親の淡路島に対する野心を知っていた。
 光秀も、これに同じ。                →【重史188】
 ということになる。

 とすれば、
 ここで問題になるのは、
 光秀が、この事を、信長に、報告したのか、しなかったのか、
 ということである。

 報告したのならば、これまで通り。
 問題なし。
 もし、しなかったとすれば、これは、大問題となる・・・・・。

 光秀は、出来る男。
 キレ者である。
 信長の性格を知り尽くしていた。
 信長は、猜疑心が強い。

 光秀は、信長への報告に、細心の注意を注意を払っていた。
 信長は、これについて、大いに関心している。
 「書中、具(つぶさ=詳細)に候へば、見る心地に候」
      【重史044】(「細川家文書」天正二年1574七月二十九日付)

 このことから考えれば、報告したものと思う・・・・・。
  但し、
 他に、何か、特別の理由・事情等がなければ、ではあるが・・・・・。

 信長は、元親の野心を知っていた。
 
「淡州の儀、仰せ下さるゝ次第、心懸け致すべく候哉」
                    【重史188】「吉田文書」7/8

 残念ながら、それを明らかにする史料は、
 現在のところ、まだ、見つかっていない。
 史実は、闇の中・・・・・。


 【引用】

 【参照】【四国問題】 天正八年1580



 ⇒ 次へつづく

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