本能寺の変1582 【重史44】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史044】 「細川家文書」
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【 重史 044】
書中、具(つぶさ)に候へば、見る心地に候 「細川家文書」
天正二年1574、七月二十九日。
この時、信長は、長島の一向一揆を攻めていた。
光秀は、細川藤孝・荒木村重らと共に、南方(石山本願寺)を攻囲して
いた。
以下は、光秀が信長へ送った報告書に対する、信長からの返書である。
ここに、光秀の、能力の一端を垣間見ることができる一文がある。
あの信長をして、「見る心地に候」と、言わしめた。
光秀は、出来る男。
信長の心の内を知悉していた。
見事である。
【重史045】と併せて、ご覧下さい。
(端裏上書)
「明智殿(光秀) 信長」
先書の返事、廿七の日付、今日、披見候、
切々、▢▢(長い)、寔(まこと)に、寄(奇)特に候、
次、南方(みなみかた)の趣、
書中、具(つぶさ=詳細)に候へば、見る心地に候、
荒木村重のこと。
先度、荒木、合戦已(以)来、異なる子細なきの由、
尤(もっと)もに候、
光秀の陣所近辺について。
其の方在陣の所、鳥羽近辺の由、是れ由断なきの通り相聞こえ候、
敵、何時も川を越し候はゞ、係(懸)け合ひ一戦、然るべく候、
▢(長い)必物やしみ仕り候て、聊爾(りょうじ)の儀これある事に候、
其の意を得、分別簡(肝)要に候、
伊丹親興・石山本願寺のこと。
伊丹の儀、兵粮これなきに於いては、定めて落居必然に候、
仍って、両城、相躵(やがて)の由に候(手を結んでいるのだから)、
則時には、攻め入ること、成るべからず候、
取り出だ(進攻)すに於いては、後巻におよぶべく候哉、如何、
分別次第に候、
長島の戦況について。
将又(はたまた)、此の表の様躰、
此の中(過日)、細々、申し越し候へども、
尚以って、申し遣はし候、
篠橋と云ふところ、また大鳥居、此の両所、昨今、弥(いよいよ)、
執(取)り巻き候、
両所ながら、兵粮一円なきこと、慥(たしか)に、相聞こえ候、
五、三日までは、相延ぶべからず、落居たるべく候、
この両所に、一揆の中にても随分の者ども、楯籠り候、
是れをさへ攻め崩し候へば、根本の長嶋、同前に候、
長嶋のこともこれあるの外、雑人原(ばら)、北(にげ)入り候て、
正躰なきこと、推量の外にて候、
はや、城中に、男女の餓死、ことの外多き由、相聞こえ候、
彼此(かれこれ)以って、爰許(ここもと=信長)の隙、近日明くべく候間、
軈(やが)て、開陣す(兵を引きあげる)べく候、
然る上は、上洛せしむべく候条、万端面談を期(ご)し候、
謹言、
(天正二年)
七月廿九日 信長(黒印)
(「細川家文書」)
【引用】そ第78話⑯
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