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本能寺の変1582 【重史219】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史219】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史219】

①さる程に、大坂(石山本願寺)退城仕るべきの旨、  

②忝くも、禁中より御勅使なされ、

③御勅使、近衛殿・勧修寺殿・庭田殿、

④幷びに、宮内卿法印・佐久間右衛門等へ御請けを申し、

⑤来たる七月廿日以前に、大坂退散に相定め、

⑥閏三月七日、誓紙の筆本見申され候なり。

                      『信長公記』


 天正八年1580、閏三月七日。
            158010307

 「大坂退散御請け誓紙の事」
 大坂では、本願寺との和平交渉が最終局面に入っていた。

 朝廷が仲に入った。

  さる程に、大坂(石山本願寺)退城仕るべきの旨、
  忝くも、禁中より御勅使なされ、

 朝廷は、顕如に真意を尋ねた。
 
  門跡・北の方・年寄ども、如何あるべきや否やの儀、
  権門(信長)を恐れず、心中の存知の旨趣、残らず申し出づべきの由、
  尋ね申さるゝのところに、

 顕如は、重臣たちと話し合った。
 
  下間(しもつま)丹後・平井越後・矢木駿河・井上・藤井藤左衛門を初め
  として、評諚致し、

 顕如は、信長との講和を決意した。
 すなわち、降伏。
 信長に、屈したのである。
 
  退屈(籠城に疲れ果てた)の験(しるし)か、又は、世間見究め申すの故か、
  今度は、上下御一和、尤もと申す事に候。

 顕如は、宗門の生き残る道を選択した。

 思えば、元亀元年(1570)九月。
 以来、十年余。
 長い戦いだった。

 内裏の手前もある。
 否、渡りに船。
 正に、瀬戸際だった。
 拒否すれば、滅するのみ。
 荒木村重を見よ。
 同じ道を歩むわけにはいかぬ。
 ・・・・・。
 最早、これまで。 
 そう、判断したのだろう。
 苦渋の決断だった。
 時に、光佐顕如、三十八歳。
 春。
 
  爰にて、御院宣を違背(いはい)申すに付きては、
  天道の恐れも如何候なり。

  其の上、信長公、御動座なされ、荒木・波多野・別所御退治の如く、
  根を断ち、葉を枯らして、仰せ付け(攻撃を命ずる)らるべく候。

 当時、石山本願寺は五十一ヶ所もの端城を抱えていた。
 顕如は、衆徒の助命を講和の条件とした。
 
  近年、大坂端城五十一ヶ所相抱へ、 
  上下苦労の者どもに賞禄をこそ宛行(あてが)はずとも、
  せめての恩に、命を助け申すべき旨、門跡、相存知せられ、

 期限は、七月二十日。
 顕如は、石山本願寺退去に同意した。
 
  来たる七月廿日以前に、大坂退散に相定め、

 顕如は、勅使と目付に受諾を伝えた。
 
  御勅使、近衛殿・勧修寺殿・庭田殿、
  幷びに、宮内卿法印・佐久間右衛門等へ御請けを申し、

 顕如は、誓紙交換を約し、検使の派遣に同意した。
 
  誓紙、御検使、申し請けられ候。

 信長は、検使を派した。
 青山忠元に、これを命ず。
 
  此の旨、安土へ言上のところに、青山虎、御検使仰せ付けられ候。

 青山忠元が、天王寺に着到した。
 その間、凡そ二十五里100km。
 
  閨三月六日、安土より天王寺へ日通りに参着候。
 
 往復、五十里200km。
 いやはや、大変な役目である。

 信長は、誓紙の内容を了承した。
 
  翌日、閏三月七日、
  誓紙の筆本(ふでもと=署名入りのもの)見申され候なり。

 信長は、顕如夫妻に黄金を贈った。
 添状をつけて。
 他に、誓紙に署名した重臣たちへも。
 
  誓紙人数。
  下間筑後(頼照)の子 少進法橋(仲之)に、黄金十五枚、
  下間刑部卿法橋(頼廉)、同じく十五枚。
  あぜち(按察使)法橋(下間頼龍)、同じく十五枚。
  北の方、同じく廿枚。
  門跡添状、同じく三十枚。
   以上。               
                          (『信長公記』)       


 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】



 ⇒ 次へつづく


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