本能寺の変1582 【重史223】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史223】 『信長公記』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史223】
①四月廿四日、播州の内しそ郡に、
②此の競ひを以て、阿賀へ取り懸けられ候ところ、
③姫路に、羽柴筑前守秀吉、在城あるべく、普請申し付け、
④羽柴筑前守、舎弟 木下小一郎、但馬国へ乱入、
⑤信長公の御威光、忝き御事なり。
⑥両国、平均に候ヘキ。
⑦都鄙の面目、後代の名誉、これに過ぐべからず。
『信長公記』
天正八年1580、四月二十四日。 158010424
秀吉は、播磨統一戦の最終段階に入っていた。
秀吉は、宍粟郡の宇野民部を攻囲した。
居城の周囲に付城を築き、これを封じ込めた。
庚辰(かのえたつ)四月廿四日、播州の内しそ郡に、宇野民部楯籠る。
彼の者の親・伯父構へ、羽柴筑前守秀吉押し詰め、乗つ取り、
二百五十余を討ち捕り、
夫(それ)より、宇野下野居城(いじろ)へ取り懸け、是れ又、責め破り、
爰(ここ)にても、数多(あまた)切拾て、
其の後、宇野民部構へは、高山節所に候。
麓を焼き払ひ、塞々(つまり〃=要所〃)に、取出を三つ申し付け、
丈夫に人数入れ置き、
秀吉は、勢いに乗っていた。
さらに、英賀*の一揆勢を攻めた。
敵は、逃亡。
難なく、寺内を制圧した。
此の競(きお)ひを以て、直ちに、阿賀*へ取り懸けられ候ところ、
芸州へ人質出だし置き候者ども、舟に取り乗り、罷り退く。
然る間、一戦に及ばず、阿賀の寺内へ打ち入り、
羽柴筑前守、此の表の様躰見計らひ、御堂へ、筑前守人数入れ置き、
百姓どもを呼び出だし、知行差出等申し付け、
姫路に至りて人数打ち納む。
*英賀 兵庫県姫路市飾磨区英賀
この頃、播磨灘の制海権は、未だ、毛利の手の内にあった。
秀吉は、姫路城を改修し己の居城とした。
姫地は、西国への道通り手寄り(=要衝)なり。
其の上、御敵城宇野民部所へも程近く、両条共に以て、然るべき郷地
なり。
姫路に、羽柴筑前守秀吉、在城あるべく相定め、普請申し付け、
秀吉の勢いは、止まらない。
弟 秀長に命じて、但馬へ攻め入った。
瞬く間に、これを制圧。
是れより、羽柴筑前守、舎弟 木下小一郎に人数差し加へ、
但馬国へ乱入、
即時、滞りなく、申し付け、
木下小一郎は、小田垣(竹田城)、居城に拵(こしら)へ、
手の者ども見計らひ(選別して)、所々に入れ置き、
秀吉は、播磨と但馬、二ヶ国の平定に成功した。
両国、平均に候ヘキ。
全ては、信長の威光。
信長公の御威光、忝(かたじけな)き御事なり。
秀吉の名は、周辺諸国へ鳴り響いた。
秀吉は、これを巧みに利用する。
すなわち、「調略」・・・・・。
併し、羽柴筑前守秀吉、一身の覚悟を以て、
両国、滞りなく、申し付けられ候事、
都鄙の面目、後代の名誉、これに過ぐべからず。
(『信長公記』)
太田牛一は、秀吉に対して、特別に配慮している。
秀吉は、ようやく、光秀に追いついた。
出世競争において。
そういうことになる。
ここから、である。
秀吉の快進撃が始まった。
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
⇒ 次へつづく
