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本能寺の変1582 【重史209】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史209】 「黒田家文書」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史209】

①阿州、相残る人質ども、志智に至り、相越さるるの由、

②行の様子、委細、小西弥九郎に、書付を以って申し渡し候、

③讃州安富、人質召し連れ、親父相越され候、

                    「黒田家文書」52


 天正九年1581、九月二十四日。           158100924
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 黒田官兵衛が、志知城に入った。

  書中、披見せしめ候、
  阿州、相残る人質ども、堅く相卜(うらな)われ、
  志智に至り、相越さるるの由、尤もに候、

 官兵衛は、秀吉の懐刀。                  【人物】
 知将・謀将、策略の人。
 秀吉の参謀の様な立場であった。
 天文十五年1546の生れ。
 この年、三十六歳。
 秀吉(天文六年1537の生れ)の九つ下。
 年齢的にも、ちょうど良い組み合わせである。

 秀吉の使者は、小西弥九郎(行長)。             【人物】
 弥九郎は、永禄元年1558の生れ。
 この年、二十四歳。
 まだ、若い。

 父は、堺の商人小西立佐。
 キリシタンである。
 フロイスの『日本史』にも、度々、登場している。

 小西弥九郎は、秀吉水軍の将。
 秀吉は、その才知を高く評価していた。 

  行(てだて)の様子、
  委細、小西弥九郎(行長)に、書付を以って申し渡し候、
  能ゝ(よくよく)、相談せらるべく候、

 牢人による風聞等への対策について。 

  将亦(はたまた)、雑説(ぞうせつ)申し候由、
  沙汰の限りに候(言語道断である)、
  牢人ども、申し出(い)で候者を搦(から)め取り、
  はた物(磔)にかけさせ候、

 秀吉は、讃岐にも、手をつけていた。
 これについても、弥九郎が、詳しく、報告する。

  随って、讃州安富、人質召し連れ、親父相越され候、
  彼の表、行の儀、何れも、具に、弥九郎、申すべく候、
  恐々謹言、

       筑前守
  九月廿四日  秀吉 (花押)

    黒田官兵衛尉殿
                         「黒田家文書」52

 

 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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