本能寺の変1582 【重史206】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史206】 「阿波国徴古雑抄」
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史206】
①長宗我部方よりも申し分候へ共、返事に能わず候、
②勝瑞、いよいよ、堅固の由、尤もに候、
③阿州表の儀、重ねて、申し越され候、
④淡路衆、毎日、追々、渡海の旨、然るべく候、
「阿波国徴古雑抄」
天正九年1581、九月八日。 158100908
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秀吉は、鳥取にいた。
以下は、生駒親正へ宛てた命令書。
阿波の三好から、人質を徴収せよ。
それが終わり次第、軍勢を派す。
そう、言っている。
秀吉は、元親との間に、距離を置いていた。
あまり良好な関係ではない、ということ。
「返事、能わず候」、とある。
煩わしい存在になっていたのだろう。
すなわち、利害の不一致。
そういうこと、である。
阿波の三好から、幾度も、救援要請が入っていた。
この頃は、三好実休の二男十河存保が、同家の跡を継いでいた。
嫡男長治は、天正四年1576、内紛により自害している。
秀吉は、このことを安土の信長へ。
微妙な案件である。
当然、そうなるだろう。
そして、承認を得た・・・・・。
元親の攻勢が、激化していた。
裏を返せば、そういうこと。
おそらく、信長の朱印状は、未だ届いていない。
勝瑞城は、健在である。
三好の本城である(徳島県板野郡藍住町勝瑞)。
十河存保が、在城していた。
急がねばならぬ、・・・・・。
秀吉は、阿波に、淡路衆を送り込むつもりだった。
秀吉は、鳥取攻めに全勢力を集中していた。
阿波の三好を救援するために、兵力を割く余裕がなかった。
そこで、淡路の衆。
となれば、・・・・・。
黒田官兵衛。
なれど、・・・・・。
元親が、兵を引かねば、・・・・・。
秀吉と元親は、敵対関係になる。
尚以て、長宗我部かた(方)よりも、申し分候へ共、
返事、能わず候、己上、
阿州表の儀、重ねて、申し越され候、
勝瑞、いよいよ、堅固の由、尤もに候、
淡路衆、毎日、追々、渡海の旨、然るべく候、
行(てだて)の儀は、自遁その外、何れも、これ人質共、
悉(ことごと)く、丈夫に請け取り、
その上において、おのおの相越し、
人数壱万余も差し越し、申し付くべく候、
彼の人質請け取り次第、人数の儀、何ほども申し付くべく候、
それ以前の事は、
聊爾(りようじ)の行(いいかげんなこと)これあるまじく候、
警固船などいずれも召し寄せ、油断なく申し付けられ候、
恐々謹言
筑前守
九月八日 秀吉(花押)
生駒甚介殿
「阿波國徴古雑抄」巻四389~390P
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
