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本能寺の変1582 【重史211】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史211】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史211】

①因幡国とつ鳥一郡の男女、悉く、城中へ逃げ入り、楯籠り候。

②下々、百姓以下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。

③吉川式部少輔・森下・日本、三大将の頸を取り進らすべく候間

④残党、扶け出だされ候様にと、詫言、申し候、

⑤十月廿五日、取鳥籠城の者、扶(たす)け出ださる。

                       『信長公記』


 天正九年1581、十月二十五日。           158101025
 出陣以来、ちょうど四ヶ月。           →【重史205】0625

 鳥取城内は、飢餓地獄に陥っていた。
 城兵のみならず。
 下々の者・百姓他、数多く逃げ込んでいた。
 だが、彼らは、長期戦の準備をしていなかった。
 
  今度、因幡国とつ鳥一郡の男女、悉く、城中へ逃げ入り、楯籠り候。
  下々、百姓以下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。
 
  初めの程は、五日に一度、三日に一度、鐘をつき、鐘次第、
  雑兵、悉く、柵際まで罷り出で、
  木草の葉を取り、中にも、稲かぶを、上々の食物とし、
  後には、是れも事尽き候て、牛馬をくらひ、
  霜露にうたれ、弱き者は、餓死際限なし。
 
  餓鬼の如く、痩衰ヘたる男女、柵際へ寄り、
  もだへ焦(こが)れ、引き出だし扶け候へと、さけび、
  叫喚の悲しみ、哀れなる有様、目も当てられず。
 
  鉄炮を以て、打ち倒し候へば、
  片息したる其の者を、人集まり、刀物を手々に持つて、
  続節(つぎぶし)を離ち、実取り候ひキ。
  身の内にても、取り分け、
  頭(こうべ)、能きあぢはひありと相見へて、
  頸をこなたかなたへ奪ひ取り、逃げ候ひキ。
 
  兎に角に、命ほど強面(つれなき)物なし。

 城中より、降伏の申し出があった。
 城代は、吉川経家。
 
  然れども、義に依つて命を失ふ習ひ大切なり。
  城中より降参の申し様、
  吉川式部少輔・森下道祐・日本介、三大将の頸を取り進らすべく候間、
  残党、扶け出だされ候様にと、詫言、申し候間、

 秀吉から、信長へ。
 信長、これを了承。
 
  此の旨、信長公へ伺ひ申さるゝところ、 御別義なきの間、
  則ち、羽柴筑前守秀吉、同心の旨、城中へ返事候のところ、

  時日を移さず、腹を切らせ、三大将の頸、持ち来たり候。

 鳥取城、開城。
 秀吉は、宮部継潤を城に入れた。
 
  十月廿五日、取鳥籠城の者、扶(たす)け出ださる。
  余りに不便に存知せられ、食物与へられ候へば、
  食にゑひ、過半頓死候。

  誠に、餓鬼の如く痩衰(やせおとろ)へて、中々、哀れなる有様なり。
  取鳥果て、城中、普請掃除申しつけ、
  城代に、宮部善祥坊入れおき訖(おわ)んぬ。
                           『信長公記』
 


 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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