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本能寺の変1582 【重史203】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史203】 「天王寺屋会記」自

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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【重史203】

五月四日朝、 羽柴藤吉郎殿・宮内卿法印御坊、

                   「天王寺屋会記」自


 天正九年1581、五月四日。             158100504

 秀吉と松井友閑、天王寺屋にて茶会に興ず。
 特別な客人ということなのだろう。
 かなり大がかりな茶会である。

 秀吉は、二人との関係を強化していた。

  五月四日朝、 羽柴藤吉郎殿・宮内卿法印御坊、

  一、大小板にふとん
  一、床 船子絵、かけて、 
          前にかぶらなし(花入れ)、宮城野萩生けて、
  一、手水間に香炉、持ち出し置き申し候、
  一、床の絵・花瓶、手水の間にのけ候、
  一、香炉、四方盆にすへ、法印、床へ上がられ候、
  一、ぜんかう茶碗 いもがしら(水指) 備前水下
     後に、塩屋宗悦、道具持参、
  一、床に石を金鉢に、松山(盆石)
  一、  はいかつぎの天目持参、茶を申し候、
  一、  宗及、かず台を取り出し、宗悦天目すへ申し候、
       後に、銭屋宗訥、道具持参、
  一、かたつき(肩衝)、四方盆にすへ、床へ(宗)及上げ申し候、
  一、床に、宗及、団絵、かけて、
            前に則友(赤松則祐肩衝)を置き申し候、
     後に、小嶋や道察、道具持参、     
  一、客来一味絵(牧谿、菜の絵)、かけて、床に、
  一、  時雨(しぐれ)大壺、持ち出して、座敷に置き申し候、
       昼、 書院に於いて、
    宗及、道具ども、筑州(秀吉)へ御目にかけ候、
    天目はいかつぎ   志野茶碗  桶  合子(蓋付の器)
     何れも、宗及四帖半にて、右の方々道具飾り申すなり、
                         「天王寺屋会記」自

 松井友閑は、信長の側近。
 堺の代官。

 三好康長の後見人でもあった。         →【重史184】
 康長は、この頃、讃岐~阿波に渡っていた・・・・・。
                    →【重史192】 【重史195】
 また、友閑は、西国方面の見張りのような役目も兼務していた。
 したがって、秀吉との接近は、ごく自然な流れだったように思う。

 津田宗及は、堺の商人。
 別の顔を併せ持つ男。
 血の臭いに敏感だった。
 「死の商人」
 これが、本性。
 となれば、西国。
 これすなわち、羽柴秀吉。
 宗及は、積極的だった。
 次第に、秀吉に接近して行く。

 秀吉は、水軍を強化せんとしていた。
 毛利との戦いを考えれば、当然、そうなるだろう。
 となれば、淡路島。
 そして、阿波・讃岐・伊予。
 海賊衆の調略、となる。
 着々と、手を打っていた。

 秀吉は、松井友閑と津田宗及を抱き込んだ。
 そういう見方も、出来るのかもしれない。
 結果的に、そうなるのだから・・・・・。

 光秀は、戦いから、遠ざかっていた。
 天正八年1580以後~。
 ピークは過ぎた・・・・・。

 秀吉の戦いは、この先もつづく。
 すなわち、将来性。
 備前・備中・備後、美作、因幡・伯耆・出雲・・・・・。
 そればかりではない。
 年齢も、・・・・・。
 宗及は、そう見ていたのかもしれない。


 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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