本能寺の変1582 【重史192】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史192】 「士林証文」
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史192】
①先度は、爆竹の諸道具こしらへ、
②然らば、重ねて、京にては、切々、馬を乗り遊ぶべく候、
③幾内の直奉公の者共、老若を出すべく候、
④其方、請取り申し触るべく候、
⑤三好山城守、是れは、阿波へ遣はし候間、除くべく候、
⑥六十余州へ相聞ゆべく候の条、馬数多くしたて、
「士林証文」
天正九年1581、一月二十三日。 158100123
信長は、安土でも、馬揃えを挙行していた。 『信長公記』
つい先日のこと(同十五日)。
小正月の年中行事、爆竹(左義長・どんど焼き)を、派手で「きらびやか」
な騎馬武者行列に大胆にアレンジ。
観衆を、大いに喜ばせた。
このことが、下地となった。
光秀は、出来る男。
キレ者である。
信長の心の内を、よく知っていた。
その時、光秀が、準備を受け持った。
先度は、爆竹の諸道具こしらへ、殊にきらびやかに相調い、
思いよらずの音信、細々の心懸け、神妙に候、
信長は、これに大いに満足した。
高評価。
気が利く。
その様なことがあった。
信長は、京都での馬揃えを発表した。
いよいよ、本番である。
然らば、重ねて、京にては、切々、馬を乗り遊ぶべく候、
自然わかやぎ、思々の仕立てあるべく候間、
信長は、光秀を実行責任者に任じた。
其方(光秀)の事は申すに及ばず、
幾内の直奉公の者共、老若を出すべく候、
其方、請取り申し触るべく候、
参加者は、以下の通り。
主に、畿内近隣の直参衆。
京都に於て、
陣参仕られ候公家衆、
又は、只今、信長扶持を請けしめ候公方衆、
其外上山城の者共、残らず内々用意すべき事尤もに候、
摂津国にては、
高山(右近)・瀬兵衛父子(中川清秀)・池田(恒興)、
是は、子供両人(池田元助・照政)、親は、伊丹城の留守居たるべく候、
彼の多田は、塩川勘十郎・同橘大夫、是の両人、
信長は、三好康長に、阿波への出陣を命じた。
故に、除外すべし。
光秀は、当然、この事を知っている。
河内にては、
多羅尾父子三人・池田丹後守・野間左橘(若江三人衆)、
三好山城守(康長)、
是れは、阿波へ遣はし候間、其用意に、除くべく候、
但、主望むに於ては、覚悟次第、乗るべく候、
和泉にては、
寺田又右衛門・松浦安大夫・沼間任世・同孫、
其外直参の者共・根来寺連判・扶持人ども用意すべし、
次に、大坂に之れ有る五郎左右衛門尉(丹羽長秀)・蜂屋(頼隆)かたへも
其用意、仕るべきの由、申し送るべく候、
若狭よりは、孫犬(武田元明)・内藤・熊谷・粟屋・逸見・山県下野、
出ずべく候、
是は、五郎左右衛門尉申し遣わすべき旨、申すべく候、
信長は、己の勢威を、広く天下に知らしめようとしていた。
これもまた、戦。
「戦わずして勝つ」
西は、中国・四国・九州へ。
東は、武田・上杉・関東・奥羽へ。
六十余州へ相聞ゆべく候の条、馬数多くしたて、
其方年寄(光秀の重臣)、あとに乗るべきもの之れ有らば、
申し付くべく候、
長岡(細川藤孝)父子三人、但、兵部大輔は丹後に之れ有るの間、
よく候はゞ兄弟二人、一色五郎これら乗るべき旨、申し送るべく候也、
御朱印有る也
天正九年正月廿三日 信長
惟任日向守とのへ
(「士林証文」「織田信長文書の研究」911)
⇄【重史187】
天正八年1580、十一月二十四日。
三好山城守、近日、讃州安富館(雨滝城)に至り下国必定に候、
「吉田文書」6/8
【引用】
⇒ 次へつづく
