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本能寺の変1582 【重史178】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史178】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史178】

①羽柴筑前・池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、

②姫路に至りて、羽柴筑前守、帰陣。

③淡路島、物主(ものぬし)、未だ仰せつけられず候なり、

                       『信長公記』


 天正九年1581、十一月十七日。            158101117

 信長は、秀吉に、淡路島の攻略を命じた。
 狙いは、三つ。
 一、瀬戸内海の制海権。
 一、中国毛利への牽制。
 一、四国政策との関連。

 秀吉は、池田元介とともに、淡路島を攻めた。

  十一月十七日、
  羽柴筑前・池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、
  岩屋へ取り懸け、攻め寄るのところ、
  懇望の筋目候、
  池田勝九郎手へ岩屋を相渡し、別条なく申し付け、 

 秀吉は、淡路島の攻略に成功した。
 
  十一月廿日、
  姫路に至りて、羽柴筑前守、帰陣。
  池田勝九郎、是れも同時に人数打ち納むるなり。
  淡路島、物主(ものぬし)、未だ仰せつけられず候なり、
                           (『信長公記』)


【引用】


 【参照】【四国問題】 天正八年1580 天正九年1581



 ⇒ 次へつづく

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