本能寺の変1582 【重史215】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史215】 「沢田文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史215】
①鳥取面の事、
②彼の城中の下々、日々餓死に及び候旨、実儀なるべく候、
③惟任・長岡以下申し付け候、
④その方、一左右(いっそう)次第、出張すべく候、
⑤信長も、出馬すべく候条、
「沢田文書」
天正九年1581、八月二十日。 158100820
信長は、吉報を待っていた。
「毛利・吉川・小早川」 【重史214】0813
秀吉は、信長の性格をよく知っていた。
報告を欠かさない。
鳥取→安土。
四~五日ぐらいの時間を要した。
以下は、それに対する信長の返書である。
去る十六日の書状、今日廿、到来、委細、披見候、
宇喜多・南条書状、同前候、
信長は、それに基づいて適切な指示を下した。
鳥取城に対して、兵糧攻めを徹底せよ。
一、鳥取面の事、先度、桑名(不明)に具(つぶさ)に申し遣わし候、
弥(いよいよ)、丈夫に覚悟せしむるの由、尤も以って然るべく候、
彼の城中の下々、日々餓死に及び候旨、実儀なるべく候、
最前、表裏仕り候族、天罰に候間、
彼是れ、打ち果すべきの段勿論に候、
弥、堅く申し付くべき事、専一に候、
宇喜多直家は、毛利への押さえ・見張りとして付け置いた。
毛利の本軍が、後詰に襲来すれば、好都合である。
一、宇喜多は、敵方目付ニ付、申越の書中に必然に相見え候、
後巻の事、仕り候へば、幸の事候、
信長は、毛利との決戦を期待していた。
光秀は、その時ための切り札であった。 【重史214】0813
手柄を上げる絶好の機会。
なれど、ために身動きとれず。
先書に申し聞す如く、惟任・長岡以下申し付け候、
又、摂州の者共をも、同前候、
その方、一左右(いっそう)次第、出張すべく候、
その上、人数は、入り次第に申し付け、
信長も、出馬すべく候条、
その意を成し、万般、由断なく、調儀肝心に候、
因幡・伯耆国境付近の状況について。
一、鹿野と伯耆の間に之れ有る敵城へ、
南条(元続)、押し詰め、一戦に及び、数多討ち取り、
討ち入り仕り候て乗り取るの由、近来神妙に候、
粉骨の段、能々□□、
次の報せを待つ。
猶、珍事候はゞ、節々注進すべく候也、
八月廿日 信長(黒印)
羽柴藤吉郎とのへ
(「沢田義厚氏所蔵文書」「織田信長文書の研究下」936)
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
