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本能寺の変1582 【重史214】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史214】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史214】

①因幡国とつとり表に至りて、

②毛利・吉川・小早川、罷り出づべきの風説これあり。

③一左右次第、参陣いたすべき用意、

④永岡兵部大輔父子三人、惟任日向守、

⑤信長公、御馬を出だされ、悉く、討ち果たし、

⑥永岡・惟任両人は、大船に兵粮つませ、

                       『信長公記』


 天正九年1581、八月十三日。            158100813

 秀吉は、信長と、頻繁に連絡を取り合っていた。
 秀吉から、注進があった。
 「風説これあり」
 毛利の本軍が、鳥取へ向かったらしい、との情報が入った。
 
  八月十三日、
  因幡国とつとり表に至りて、
  芸州より、毛利・吉川・小早川、
  後巻として、罷り出づべきの風説これあり。

 信長は、光秀らに、出陣の用意をして待機するよう命じた。
 
  則ち、御先手に在国の衆、一左右(いっそう)次第、
  夜を日に継ぎて、参陣いたすべき用意、
  少しも由断あるべからずの趣、仰せ出だされ候。

 待機する軍勢は、以下の如し。
 
  丹後国にて、永岡兵部大輔(細川藤孝)父子三人、
  丹波国にて、惟任日向守(明智光秀)、

  摂津国にて、池田勝三郎(恒興)大将として、
  高山右近・中川瀬兵衛・安部二右衛門・塩川吉大夫などへ、
  先づ、仰せ出だされ、
 
  此の外、隣国衆・御馬廻は申すに及ばず、御陣用意仕り相待つべく候。

 秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
 秀吉は、己の役目に徹した。
                            
 信長は、自ら、出陣するつもりだった。
 「悉く、討ち果たし」
 雌雄を決するのは、信長でなければならぬのである。

 信長は、猜疑心のきわめて強い男。
 それ故、ここまで生きのびた。
 疑われれば、抹殺される。

 秀吉は、聡い男。
 そのことをよく心得ていた。 
 
  今度、毛利家人数後巻として、罷り出づるに付いては、
  信長公、御馬を出だされ、
  東国・西国の人数、膚を合せ、御一戦を遂げられ、
  悉く、討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、
  上意にて、各、其の覚悟仕り候。

 光秀と藤孝は、水軍を派した。
 
丹後から、鳥取へ、
 それらに、兵粮を積み込み、千代川の河口に待機させた。
 この水軍が、やがて、大活躍する。
 
  然して、永岡・惟任両人は、大船に兵粮つませ、
  永岡、舟の上乗り、松井甚介、
  惟任、舟の上乗り申し付け、
  因幡国とつとり川の内へつけおき候。

 太田牛一は、細川藤孝の手柄が目立つように配慮している。 

 信長は、高山右近に鳥取の様子を見てくるよう命じた。
 
  八月十四日、御秘蔵の御馬三疋、羽柴筑前かたへ遣はされ候。
  御使、高山右近。
  とつとり表、懇(ねんごろ)に見及び、罷り帰り、言上候への趣、
  上意にて、御馬ひかせ、参陣。
  羽柴筑前、外聞実儀、身に余り忝き次第の由なり。
                           (『信長公記』)


 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】



 ⇒ 次へつづく


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