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本能寺の変1582 【重史204】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史204】 「天王寺屋会記」他

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史204】

①六月十二日朝、 羽柴藤吉郎殿御会、

②播州ヒメジにて、 宗及 備中屋一噌

                   「天王寺屋会記」他


 天正九年1581、六月十二日。             158100612

 秀吉、播州姫路にて、茶会を催す(津田宗及、参ず)。
 堺~姫路。
 行程、
 陸路で、凡そ二十五里100km。
 海路で、凡そ二十里80km。
 あそらく、船か・・・・・。
 宗及は、十六日に、堺にもどっている(茶会)。

  六月十二日朝、 羽柴藤吉郎殿御会、
  播州ヒメジにて、      宗及 備中屋一噌(いっそう 笛の名人)

  一、を(押)し入れ床に大軸の月絵、かけて、但し、手水間に御巻き候、
  一、小板にあられかま(霰釜)、但し、宗易(千利休)より来候なり、
  一、はいかつぎの天目、但し、あまがう(尼子)殿の天目なり、
                          始めて見申し候、
      台なし、甚九(佐久間信栄)の大亀蓋、
    天目は大形なり、 ふかきやうに相見え候、
    土あらめなり、薬よく候、
    さらりとあり、はい(灰)色に黒色なり、
    しょしゃ(書写山)へ見物に十一日登山候、
    終日、見物候なり、
                         「天王寺屋会記」他

 秀吉は、因幡鳥取への出陣を控えていた(『信長公記』) 。
 否、そればかりにあらず・・・・・。

 秀吉は、淡路島・阿波へも手を打っていた(「黒田家文書50~52」) 。
 のみならず、・・・・・。

 秀吉は、伊予の村上水軍をも調略していた(「黒田家文書53」) 。

 秀吉、恐るべし。
 実に、広範囲に、作戦を展開していた。
 以下、北から南へ、順に。
 伯耆・因幡・但馬、
 美作・
 備前・播磨、
 淡路島、
 伊予・讃岐・阿波。
 と、いうことになる。

 秀吉は、信長と、綿密に連絡を取り合っていた。
 度々、安土へ帰っている。

 信長は、きわめて、猜疑心の強い男。
 書状の遣り取りも、頻繁だった。

 秀吉は、隙のない男。
 信長の性格をよく知っている。 

 光秀は、一歩も二歩も出遅れた。
 西国への伸ばし芽を全て封じられてしまった。
 そういう見方もできる。
 


 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく


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