本能寺の変1582 【重史194】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史194】 「天王寺屋会記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史194】
正月八日朝、 安土に於いて宮法御会 宗訥 宗二 宗及
「天王寺屋会記」
天正九年1581、一月八日。 158100108
松井友閑は、津田宗及を招き茶会を催した(安土)。
宗及は、信長に、年賀の挨拶のため安土を訪れていた。
同正月八日、朝、 安土に於いて 宮法御会 宗訥 宗二 宗及
一、床に、定家(藤原)の色紙、嵐吹くの歌なり、
一、炉に、紹鷗(武野)定張(湯釜)、くさり(鎖)に、
一、袋棚に中通、かたつき(肩衝茶入)、方盆に、台(尼崎)天目(曜変)
下に赤金のたらい 金のばうのさき ほや香炉(蓋置)
薄茶 かうらい(高麗)茶碗 茶筅入にも
(「天王寺屋会記」他)
【引用】
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