本能寺の変1582 【重史216】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史216】 『信長公記』
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
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【重史216】
①歳暮の御祝儀として、羽柴筑前守秀吉、播州より罷り上り、
②御小袖、数弐百、進上。
③其の外、女房衆かた、それぞれへ参らせられ、
④か様の結構、生便敷(おびただしき)様躰、古今承り及ばず、
⑤今度、因幡国取鳥、一国平均に申しつけらるゝ事、
⑥武勇の名誉、前代未聞の旨、御感状をなされ、
⑦信長公、御褒美として、御茶の湯道具、十二種御名物、
『信長公記』
天正九年1581、十二月後半。 1581012**
安土城は、歳暮の品を献上する者たちで混雑していた。
さる程に、月迫(十二月末)には、
隣国遠国の大名・小名、御一門の御衆、安土へ馳せ集り、
歳暮御祝言として、金銀・唐物・御服・御紋織付、御結構大方ならず。
我れ劣らじと、門前市をなし、
色々の重宝進上、其の員(かず)を知らず。
寵辞(いつきかしつき)、崇敬斜ならず。
御果報、貴(いみじ)き有様、本朝に並びなし。
御威光申すばかりなき次第なり。
そこに、秀吉が播磨から参着した。
年末の挨拶。
歳暮の品は、膨大な数の小袖であった。
城中の女房衆すべてを味方につけようとする魂胆か・・・・・。
歳暮の御祝儀として、
羽柴筑前守秀吉、播州より罷り上り、御小袖、数弐百、進上。
其の外、女房衆かた、それぞれへ参らせられ、
か様の結構、生便敷(おびただしき)様躰、古今承り及ばず、
上下とも、耳目を驚かし候ひ訖(おわ)んぬ。
秀吉は、得意の絶頂にあった。
今度、因幡国取鳥、名城と云ひ、大敵と云ひ、
一身の覚悟を以て一国平均に申しつけらるゝ事、
武勇の名誉、前代未聞の旨、御感状をなされ、頂戴、
面目の至り、申すばかりなし。
だが、信長は疑い深い。
秀吉は、そのことを知っている。
信長は、褒美として、名物の茶道具十二種を与えた。
秀吉は、播磨へ帰った。
信長公、御満足なされ、御褒美として、御茶の湯道具、十二種御名物、
十二月廿二日、御拝領候て、播州へ帰国候ひしなり。
(『信長公記』)
秀吉の活躍が、目立った。
播磨・但馬・因幡・伯耆、そして、淡路島。
信長との関係は、きわめて良好。
秀吉は、一歩も二歩も先行した。
その将来は、明るい。
光秀に、特に、目立った活躍はない。
光秀は、大きく水をあけられた。
元親の問題が、重石になった。
そして、もう一つ。
毛利との決戦に備えて、待機せねばならなかった。
ために、身動きならず。 【重史214】 【重史215】
のみならず、妹御ツマキを失った、今。 【 重史 007 】250817
信長とのコミュニケーションが、思うようにならず。
等々。
明智の将来は、暗い。
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
⇒ 次へつづく
