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本能寺の変1582 【重史196】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史196】 「天王寺屋会記」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史196】

二月十日朝、 宮内卿法印、御出で、

                    「天王寺屋会記」自


 天正九年1581、二月十日。             158100210

 松井友閑が、天王寺屋を訪れた。
 三好康長にとって、津田宗及は、古くからの茶友。
 また、友閑は、命の恩人。              →【重史184】

 ここは、堺。
 四日前、康長は、 宗及と会っている。        →【重史195】
 おそらく、友閑とも会っていた・・・・・。

 となれば、・・・・・。
 この時の、友閑と宗及の話は、四国渡海のこと・・・・・。
                          →【重史192】

  同二月十日朝、 宮内卿法印、御出で、 雲(了雲)・叱(道叱)・訥(宗訥)

  一、床 山水絵、かけて、 但し、手水の間の巻き候、
  一、炉に、うば口(姥口釜)、自在に、 手桶 金の合子(蓋付小容器)
  一、床に、かぶらなし、手水の間に置く、水斗(ひしゃく)、
     白玉椿・薄色椿、持ち出して、法印へ花所望申し候、
     白玉を御生け候、
  一、ぜんかう茶碗、一つにて前後、
                        (「天王寺屋会記」自)


 【引用】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく

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