本能寺の変1582 【重史199】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史199】 「天王寺屋会記」他
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史199】
①惟任日向守殿父子三人
②長岡兵部太夫殿父子三人
③紹巴 宗及 宗二 道是
④地蔵行平の太刀、与一郎殿より日向殿へ御進上候なり、
⑤かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、
⑥うふてる松は、千年のさなえ哉、 光秀
「天王寺屋会記」他
天正九年1581、四月十二日。 158100412
光秀、天橋立を遊覧す(津田宗及を同道)。
亀山より、福知山へ。
行程、凡そ十四里56kmぐらい。
四月九日に、
丹波亀山より、奥郡へ、通り申す路次中にて、方々、振舞いこれ有り、
四月十日朝、
福知山にて、明知弥平次殿(秀満)の振舞、七五三の膳なり、
光秀は、福知山城に明智秀満を配していた。 【人物】
秀満は、光秀の娘聟(二女か)。
生年不詳。
光秀の右腕。
重臣ナンバーワン。
天正十年1582、坂本落城の時。
「すべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。」
のは、この秀満である。
→【重史197】 【重史014】『日本史』
秀満は、山崎の戦いに、参加していない。
留守役として、安土城に残っていた。
そこに、光秀敗戦の報せが届いた。
秀満は、急ぎ、対岸の坂本城へ。
そこに、秀吉の大軍勢が攻め寄せて来たのである。
【参照】そ第68話
2光秀には、三人の娘がいた。
細川忠興室、織田信澄室、荒木村次室。
娘は、これ以外にもいたようである。
光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。
光秀の長女は、織田信澄へ嫁いだ。
光秀の二女は、荒木村次へ嫁いだ。
この女性は、村重の謀叛時、離縁され、光秀のもとに帰された
(「立入左京亮入道隆佐記」) 。
後、明智秀満に再嫁。
福知山より、丹後の宮津へ。
行程、凡そ十二里48kmぐらい。
その途中にて。
四月十一日朝、
福知山より、罷り出で候なり、
惟任殿御供申し候、
路次にて、福寿院(愛宕山下坊)振舞、
茶屋を立て、生鮎・生鯉・鮒、せんすひ(山の水)を俄用意にて、
魚共をはなされ候、
是れも七五三、色々様々に振舞なり、
細川藤孝父子は、光秀一行を大いに歓待した。
「光秀、あればこそ」
そのようなう思いだっただろう。
細川父子にとって、光秀の貢献は、きわめて大きなものだった。
四月十二日の朝、長岡与壹郎殿の振舞、
一、御人数 惟任日向守殿父子三人
長岡兵部太夫殿父子三人
紹巴 宗及 宗二 道是
本膳七ツ、二膳五ツ、三膳五ツ、四膳三ツ、五膳三ツ、
引物二色、
以上七の膳なり、
菓子、むすび(結)花にてかざ(飾)り、十一種なり、
一、御酒半に、
地蔵行平の太刀、与一郎殿より日向殿へ御進上候なり、
船で、天橋立へ。
文殊にて、連歌に興ず。
同十二日の巳の刻(10時頃)に、
九世戸へ見物、
かざり船にて、并びに橋立の文殊にて、御振舞これあり、
一、俄(にわか)に、夕立の雨ふりて、 兵部大(太)夫殿藤孝
夕立の、けふハ、は(刃)、ハ(早)やき、切戸哉、
一、紹巴と、日向殿と、太夫殿と連歌あり、
九世戸の松に、なへ松といふ松なり、其れについての発句あり、
うふ(植)てる松は、千年(ちとせ)の、さなえ(早苗)哉、 光秀
夏山うつす、水の見なかみ(水上)、 藤孝
夕立の、あとさりげなき、月見へて、 紹巴
【引用】◎第16話 第16話 ◎第17話 第17話 ◎第18話 第18話
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
