本能寺の変1582 【重史154】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史154】 『信長公記』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史154】 そ第11⑩01
①土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守、
②惟任日向守、執奏にて、
③御鷹十六聯、幷(ならび)に砂糖三千斤、進上。
『信長公記』
天正八年1580、六月二十六日。 158000626
織田と長宗我部は、友好関係にあった。
「砂糖、三千斤」
同二十六日
土佐の元親から、信長へ。
鷹十六聯(もと)・砂糖三千斤が、献上された。
取次は、「惟任日向守」。
光秀は、安土にいた。
六月廿六日、
土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守、
惟任日向守、執奏にて、御音信として、
御鷹十六聯、幷(ならび)に砂糖三千斤、進上。
則ち、御馬廻衆へ、砂糖下され候ひキ。
(『信長公記』)
【引用】 そ第11⑩01
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
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