本能寺の変1582 【重史125】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史125】 「言継卿記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史125】 そ第11話㊴
①奉公衆、石谷兵部少輔、牢人、
②小笠原又六、下向、四里北に居らるゝのところへ、
③杉原与七郎、近所に於いて、生害なり、
「言継卿記」
永禄十二年1569、七月十三日。 156900713
この頃、石谷頼辰は、岐阜にいた。 【 人物 】
七月十三日(永禄十二1569)
山科言継は、そのことを知っていた。
「今日、尋ねべく」、とある。
山科言継と石谷頼辰は、旧知の間柄。
偶々、頼辰が、言継の宿所の前を通りかかった。
それを、「招き寄せ、雑談しおわんぬ」。
十三日、
乙酉(きのととり)、巳の刻(10時頃)より、雨降る、終夜大風大雨、
奉公衆、石谷兵部少輔①、牢人、
当国近所の由、伝え聞くの間、今日、尋ねべく、遣わすのところ、
門前、通らるゝの間、招き寄せ、雑談しおわんぬ、
頼辰は、小笠原少斎と親交があった。 【 人物 】
ともに、足利義輝の奉公衆だった。 【重史122】
頼辰は、又六(少斎)に会いに行く途中だった。 言継は、伝言を頼んだ。
小笠原又六②、下向、四里北に居らるゝのところへ、
罷り向かうと云々、
言伝仕りおわんぬ、
義昭は、杉原長盛を粛清した。 【 人物 】
理由は、不明。
実行したのは、信長である。
巳の刻、牢人の奉公衆、杉原与七郎③、近所に於いて、
生害なり、
(「言継卿記」)
義昭は、信長へ使者を派し、礼物を贈った。
廿一日、癸巳(みずのとみ)、雨降る、今日より天一天上、
大館治部少輔、来られ、
杉原上総介(長盛)、生害せられ、御祝着の由、
御使として、長光御腰物、信長に遣わさると云々、
昨夕、下着の由、これ有り、
明日、上洛すべきの由、申され候間、京都へ書状、言伝しおわんぬ、
(「言継卿記」)
①石谷頼辰について、 1~6 。
1 石谷頼辰は、第十三代将軍足利義輝の奉公衆だった。
「永禄六年諸役人附」の前半部分に、石谷光政・頼辰父子の名がある。
【重史122】 【 人物 】
2 義輝は、三好によって殺害された。
永禄八年1565、五月十九日。
「永禄の変」 【重史078】 そ第19話
3 阿波の足利義栄、第十四代将軍に就任。
三好三人衆、これを擁立。
「言継卿記」、永禄十一年1568二月八日条。
だが、同年九月~十月頃、義栄、病没。
4 足利義昭、上洛。
永禄十一年1568、九月二十六日。
信長は、義昭を推戴して、京に入った(『信長公記』「言継卿記」) 。
【参照】◎第35話 第35話
5 石谷頼辰は、第十五代将軍義昭に仕えなかった。 【重史051】
「牢人」、とある。 そ第11話㊴
6 頼辰は、後に、光秀の家臣となる。
長宗我部元親との、交渉にあたった。
「暗礁」
光秀にとって、頼辰は、最後の切り札だった、
頼辰、土佐へ。 【 重史 042】「石谷家文書」
最後の使者。 本能寺への道2
「説得」
決め手になったのは、「武田効果」。
長宗我部元親は、「承諾」する他なかった。
頼辰は、急ぎ、帰途に。
なれど、結果、間に合わず・・・・・。 本能寺への道2
「万事休す」
光秀は、決断した。
このことが、「本能寺の変」の一因となる。
ここが、重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
【参照】光秀と長宗我部元親
【参照】本能寺への道 1 2 3 4 5
【参照】本能寺への道2
そ第78話⑦ 秀吉は備中に 同十七日
そ第78話⑧ 石谷頼辰は土佐に 同二十一日
そ第78話⑨ 土佐は僻遠の彼方 所要時間
②小笠原又六(少斎)について。 【 人物 】
ここで、余談をひとつ。
この小笠原又六も、幕府(義輝)の奉公衆であった。 【重史122】
「永禄六年諸役人附」前半部分に、「申次」として、その名がある。
しかし、後半部分には、その名が見当たらない。 【重史051】
又六の小笠原氏は、信濃小笠原氏の分流である。
宗家と同様、有職故実の家であった。
又六は、後に、細川藤孝に仕え、家老となる。
剃髪して、少斎と号した。
後に、この小笠原少斎が、細川ガラシャを介錯することになる。
そして、慶長五年1600。
徳川家康と石田三成の対立。
三成は、細川忠興の妻ガラシャを人質にせんとした。 【 人物 】
七月十七日。
彼女は、これを拒絶して、自害する。
この時、介錯したのが、この少斎であった。
同日、屋敷に火を放ち自刃。
この一部始終を見ていた証人がいた。
ガラシャの侍女(志も)である(「霜女覚書」「肥後細川藩拾遺」) 。
これについては、後述する。
細川ガラシャは、明智光秀の娘。
人の運命とは、わからぬもの。
奇遇という他ない。
関ヶ原の合戦は、この二ヶ月後、九月十五日に起こる。
②杉原与七郎(長盛)について。 【 人物 】
杉原長盛も、同じく奉公衆。 【重史122】 【重史051】
こちらは、「永禄六年諸役人附」の前半部分と後半部分に、ともに、
「御部屋衆」として、その名が記されている。
しかし、「牢人」。
義昭の側から、離れた。
それを、「生害」。
何か、裏切り行為のようなことをしたのだろうか。
大罪が、発覚した・・・・・。
「粛清」
義昭が、これを命じ、
手を下したのが、信長だった。
「御祝着の由」
殺伐とした時代だった。
⇒ 次へつづく
