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本能寺の変1582 【重史78】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史078】 『信長公記』 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史078】 そ第19話            

①先の公方光源院義照御生害、

②其の濫觴(らんしょう=始まり)は、

                       『信長公記』

 この事件が、全ての始まりだった。 
 信長にとっても。
 光秀にとっても。

 永禄八年1565、五月十九日。
 辰の刻(午前七時~九時頃)。
 京の都。
 白日の下。
 大衆の面前であった。

 世を震撼させる大事件が勃発した。
 
三好の下剋上。
 「永禄の変」

  先の公方光源院義照御生害、同御舎弟鹿苑院殿(周嵩)、
  其の外諸侯の衆、歴々討死の事。 

  其の濫觴(らんしょう=始まり)は、

  三好修理大夫(長慶)、天下の執権たるに依つて、
  内々、三好に遺恨おぼしめさるべしと兼ねて存知、
  御謀叛を企てらるゝの由、
  申し掠め(謀叛を企て、すきを窺って)、
  事を左右に寄せ(ああだこうだと理由をつけて) 、
  永禄八年五月十九日に、清水詣と号し、早朝より人数をよせ、
  則ち、諸勢殿中へ乱れ入る。 

 将軍義輝が殺害された。
 十一歳の時に将軍職を引き継いだ。
 以来、十九年。
 激動する時代の波に翻弄された。
 その最期の姿である。
 享年、30。

  御仰天なされ候と雖(いえど)も、是非なき仕合せなり。
  数度切つて出で、伐り崩し、余多(あまた)に手を負はせ、
  公方様御働き候と雖(いえど)も、多勢に叶わず、

  御殿に火を懸け、終(つい)に御自害なされ候ひ訖(おわ)んぬ。

 この時、義輝の三弟鹿苑院周嵩も殺された。

  同じく、三番目の御舎弟鹿苑院殿へも、平田和泉を討手にさし向け、
  同刻に御生害。 

 大衆は、世の乱れを憂えた。
 「世も末」とは、正に、このこと。
 下剋上が罷り通る時代だった。
 
  誠に、御当家破滅、
  天下万民の愁歎、これに過ぐべからずと云々。
                           (『信長公記』)


 【引用】そ第19話 ◎第19話 第19話



 ⇒ 次へつづく


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