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本能寺の変1582 【重史74】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史074】 「お湯殿の上の日記」 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史074】 そ第201話④

ゆきやう(遊行)上人、れいほう(礼訪)、

                   「お湯殿の上の日記」

 天正八年1580
 遊行上人が参内した。
 
二月五日。
 その日の、御所の様子である。

  五日、
  御こしいたくて、けふの御せうかうたいに、しやくせんゐんに、
  おほせらるゝ、

  ゆきやう(遊行)上人、れいほう(礼訪)、
  いろいろ、もちてまい(参)らるゝ、
  小御所にて、御たいめん(対面)ありて、
  御十ねん(念)、うえ、わたくし、みなみな、う(受)くる、
  おかの御所も、御十ねん、御うけあり、
  れいほうとも、みなみな、御おか(拝)みあり、
  すぎはら十てうに、御あふきたふ、
  そのゝち、二条の御所へ、まいらるゝ、
                      (「お湯殿の上の日記」)


 【引用】そ第201話④



 ⇒ 次へつづく

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