本能寺の変1582 【重史72】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史072】 「兼見卿記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史072】 そ第201話③
惟任日向守へ礼のため、坂本に下向、
「兼見卿記」
天正八年1580
一月十七日。
光秀は、坂本にいた。
吉田兼見が、年始に来訪した。
おそらく、二十五日の安土下向について、光秀に、相談したものと思う。
十七日、戊午(つちのえうま)、
明日、禁裏の爆竹、在所に申し付け、各(おのおの)、罷り出でおわ
んぬ、
惟任日向守へ礼のため、坂本に下向、
路地、寒風、以ての外なり、
午の刻(12時頃)、津に着く、
(光秀に)面会、百疋持参、
妻木、五十疋・御祓い、
安土に下向、奏者に預け置く、
(「兼見卿記」)
【引用】そ第201話③
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