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本能寺の変1582 【重史70】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史070】 「天王寺屋会記」 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史070】 そ第201話②

正月十四日、巳の刻 安土において、

                     「天王寺屋会記」

 天正八年1580
 
一月十四日。
 信長は、安土にいた。
 津田宗及が、年始の挨拶に訪れた。

  正月十四日、巳の刻 安土において、
  上様に御礼に参り候ところ、御天守へめしよせられ、
  終日、御前にこれ有り、
  御茶を引かせられて、宮内法(松井夕閑)へ下され候、
  松嶋の御茶欤(か)、
  みくしら(身鯨)を拝領候、
  宮法(松井夕閑)において、御振舞候、
  又、三州のひし一籠(かご)拝領候、
                         (「天王寺屋会記」)


 【引用】そ第201話②



 ⇒ 次へつづく

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