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本能寺の変1852 その一因  一、光秀の年齢 そ小7 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 

1光秀と光慶 そ小7 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 重要史料 】 【 人物 】  
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 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

そ小7 そ第7話   ←テ第7話 ←◎第7話 ←第7話

 光秀は、大きな悩みを抱えていた。
 1己の年齢。
  そして、老い。
 2光秀は、かつて、大病を患ったことがあった。
  光秀は、生死の境を彷徨(さまよ)った。
  この時の体験から、体力に不安を感じていた。
  光秀は、それ程、頑強な肉体の持ち主ではなかった。
  年齢の問題に、このことが重なった。
 3「世代交代」
  光秀の後継者は、光慶である。
  時は今、あめが下なる五月哉、     光秀
  国々は、猶、長閑(のどか)なる時、    光慶 「続群書類従」
  この時、光慶は、まだ13歳だった。
  今風に言えば、12歳。
  小学6年生である。
  まだ、若い。
  否、若すぎた。
  しかも、相手は、あの信長。
  光秀に、残された時間は、あまりにも少ない。
  「取るべき道は」、・・・・・。 
  光秀は、いよいよ、追い込まれていく。

 以上1~3、これらが、複雑に絡み合い、「本能寺の変」の一因となる。



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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