見出し画像

本能寺の変1582 【重史62】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史062】 『信長公記』 

はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←  
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史062】 そ第158話⑧

①信長、十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。

②大うつ気とより外に申さず候。

                       『信長公記』

 天文十八年1549
 信長の青春時代。
 結婚した頃の信長である。

 「上総介殿、形儀の事」

  信長、十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。
  馬を朝夕、御稽古、
  又、三月より九月までは、川に入り、水練の御達者なり。

  其の折節、竹鎗(やり)にて扣(たた)き合ひを御覧じ、
  兎角、鎗は、みじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、
  三間柄(え)、三間々中柄などにさせられ、

 身なり、風体。

  
其の比(ころ)の御形儀(ぎょうぎ)、
  明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、
  ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、
  御髪は、ちやせん(茶筅)に、くれなゐ(紅)糸・もゑぎ(萌黄)糸にて、
  巻き立て、ゆわせられ、
  大刀、朱ざやをささせられ、悉(ことごと)く、朱武者に仰せ付けられ、

 内に秘めた思いが、あったのだろう。
 日夜、弓・鉄砲・兵法・鷹狩など戦稽古に明け暮れていた。

  市川大介、めしよせられ、御弓御稽古。
  橋本一巴を師匠として、鉄炮御稽古。
  平田三位、不断、召し寄せられ、兵法御稽古。
  御鷹野等なり。

 信長は、大うつけと言われていた。
 映画に出てくる有名な部分である。
 異端児だったのだろう。

  爰(ここ)に、見悪(みにく)き事あり。

  町を御通りの時、人目をも御憚(はばか)りなく、
  くり・柿は、申すに及ばず、瓜をかぶりくひ(食)になされ、
  町中にて、立ちながら、餅をほおばり、
  人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は、
  御ありき(歩く)なく侯。

  其の比(ころ)は、世間、公道(礼儀作法をきちんとすること)なる
  折節にて候間、

  大うつ気とより外に申さず候。
                          (『信長公記』)


 【引用】第88話 そ第158話⑧



 ⇒ 次へつづく

いいなと思ったら応援しよう!