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本能寺の変1582 【重史63】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史063】 「織田信長文書の研究」 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史063】 そ第158話⑨

①制札 熱田八ヶ村中

②藤原信長(花押)

                  「織田信長文書の研究」

 天文十八年1549
 信長は、藤原氏を称していた。
 
以下は、信長が尾張熱田八ヶ村に宛てた制札。
 信長の初見文書とされる。
 この中に、「藤原信長」、とある。
 信長の織田氏は、元々、「藤原」の姓だった。

      制札            熱田八ヶ村中

  一、当社御造営のために、宮中に人別を収めらるべし、
    然る上は、国次(なみ)棟別幷(ならび)に、他所・他国の諸勧進を
    停止せしむるの事、

  一、悪党現形(げんぎょう=悪事)に於いては、
    届けに及ばず成敗すべきの事、

  一、宮中、先例に任せ、他国・当国敵味方幷(ならび)に奉公人、
    足弱、同預ヶ物等、改めべからざるの事、

  
  付けたり、宮中へ出入りの者え、路地に於いて、非儀(=無理)を
    申し懸くるの事、

  一、宮中え使事は、三日以前□□幷に其の村へ相届け、糾明を遂げ、
    其の上難渋に就いては、譴責使を入るべきの事、

  一、俵物(=米俵)留の事、前々の判形の旨に任せ、宮中え相違なく
    往反の事、

    右条々、違犯の輩(ともがら)に於いては、速やかに厳科に処す
    ものなり、
    仍って、執達件の如し、
  
      天文十八年十一月 日         藤原信長(花押)
                      (「織田信長文書の研究」)


 【引用】第89話 そ第158話⑨



 ⇒ 次へつづく

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