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未来を語るということ──構造も、人も、場も、共鳴も諦めない

はじめに──DoingからBeingへ

これまで、私は自分の「これから」について、それなりに語ってきたつもりでした。

「勤務先で社長になる」
「イノベーションを牽引するビジネスパーソンになる」
「生きているうちに政治家になる」
「商業出版で新たな本を書く」
「スカイダイビングをする」
「100名山を踏破する」

そんなことを、折に触れて口にしてきました。

けれど、最近になって、ふと気づきました。

私は、未来のことを、意外とあまり語っていないのではないか。

語っているように見えて、その多くは「何者になるか」「何を達成するか」「何を手に入れるか」という話だったのです。

もちろん、それらも大切です。

でも、それは「創りたい未来」とは少し違うのかもしれない。

では、自分はいったい、どんな未来を見たいのだろう。

この問いを考えていくうちに、これまでバラバラに見えていた、自分の仕事や活動や発信が、一本の線でつながり始めました。

それは、

「本来あり得るはずなのに、なぜか不在になっているものを、もう一度この世界に存在させたい」

という願いでした。


■過去の実績ではなく、これからの行動を見る

以前、Xにこんな投稿をしました。

「これから何をするかで未来は決まる」
そんな気持ちで書いた言葉でした。

そこから、その後にもう一つのことにも気づきました。

過去の実績が「自分そのもの」になってしまうことは、実績が無いと思っているのと同じくらい苦しいのではないか。

実績がない人は、「自分には何もない」と思ってしまう。一方で、実績がある人は、「過去の自分を超え続けなければならない」と思ってしまう。

どちらも、評価の軸を外に置いているという点では似ています。

だから、過去の経験から学ぶときには、「成功したか」「成果が出たか」だけではなく、「自分は何を考え、どう行動し、そのプロセスにどんな意味や価値を見出したのか」を見ることが大切なのだと思います。

過去は、未来の証明ではない。
未来に向かうための素材です。

■なぜ、人は未来を語ることを躊躇するのか

そんなことを考えているうちに、別の問いが浮かびました。

過去の実績を語る人はたくさんいる。
成功とまでは言えなくても、失敗や後悔や教訓を語る人はもっとたくさんいる。

けれど、「私は、こんな未来をつくりたい」と語る人は、急に少なくなる。

なぜでしょうか。それは、未来には証拠がないからだと考えられます。

失敗談には事実がある。
成功談には数字がある。
経歴には肩書きがある。

けれど、未来について語るときには、

「本当にできるの?」
「根拠は?」
「誰が評価するの?」
「実現しなかったら恥ずかしくない?」

そんな問いがついてくる。

未来を語るということは、能力や実績ではなく、自分の意志を晒すことだからです。だから、人は未来を語る前に、その未来を査定してしまう。

「できそうか」
「合理的か」
「成功しそうか」

そうやって評価しているうちに、「本当は、こうしてみたい」という言葉は、どこかへ消えてしまう。

でも、未来は本当に、過去の実績の延長線上にしか描けないのでしょうか。

■私が見ているのは「不在」なのかもしれない

最近、ロイ・バスカーのいう「不在」という考え方が、自分の中で妙にしっくりきています。

それは、単に「足りないもの」を探すということではありません。

構造的には存在し得るのに、なぜか存在していないもの。

私は、どうもそういうものを見つけてしまうらしい。そして、もっと困ったことに、一度見つけてしまうと、なかなか諦められない。

「仕方ないよ」と言われても、
「本当に、まだできることはないのだろうか?」と考えてしまう。

たとえば、「働く喜び」。

人が働くことと、喜びを感じることは、本来両立できるはずです。けれど、分業や合理化や評価制度や組織構造の中で、人は自分の仕事から切り離され、仕事の意味からも切り離されていく。
だから私は、「働く喜びを取り戻したい」と思う。

「子どもが未来を描けること」もそうです。

生まれた場所や家庭によって、最初から未来を奪われるような社会ではなく、どんな子どもでも「自分も未来に関われる」と感じられる社会は、十分に実現可能なはずです。なのに、そこには不在がある。
だから、その不在が気になる。

「人の存在そのものが祝福されること」もそうです。

人は、成果を出したから価値があるのではない。何者かになったから大切なのでもない。それでも現実には、役に立つか、結果を出すか、評価されるかによって、人の扱われ方が変わってしまう。
だから私は、その不在を取り戻したい。

私がやりたいことは、ゼロから理想郷を発明することではありません。
でも、決して「昔はよかった」と言いたいわけでもない。

むしろ、「本来あり得るのに、なぜか不在になっているものを、もう一度出現させる」のです。
だから、キラキラした理想主義とも少し違う。

「それ、構造的にはできるはずじゃない?」
という、少ししつこい問いから始まります。

■構造を諦めない。人も諦めない。場も諦めない。

そこで、最近、自分の中でとても大切な言葉が生まれました。

構造を諦めない。
人も諦めない。
場も諦めない。

これが、私にとっての「三位一体開発」の根っこなのだと思います。

新規事業開発。
人材開発。
組織開発。

一見すると、別々の仕事です。けれど、本当はつながっています。

新規事業開発は、既存の構造から、新しい構造を生み出すこと。
人材開発は、人の中にまだ発揮されていない可能性を諦めないこと。
組織開発は、その人が可能性を発揮し、他者と関わり、変わることができる場をつくること。

もちろん、完全に分かれているわけではありません。

組織開発は、コミュニケーションやメンタルモデルを扱えば「人」に近づいていく。
新規事業開発は、カルチャーや制度や権限に踏み込めば「場」に近づいていく。
人材開発も、環境や構造が変わらなければ限界にぶつかる。

だからこそ、事業・人・組織を別々に開発するのではなく、

構造、人、場を同時に動かしていく。

それが私にとっての三位一体開発なのだと思います。

■その根底にあるのは、「共鳴を諦めない」ということ

そして、さらに深いところまで降りていくと、3つの「諦めない」の下に、もう一つの言葉がありました。

共鳴を諦めない。

人とも。
組織とも。
社会とも。
自然とも。
世界とも。

まだ響き合える可能性があることを諦めない。
自分から響かせることも諦めない。
相手から返ってくるものを受け取ることも諦めない。

私はこれを、「関係性リテラシー」と呼べるのではないかと思っています。

関係性リテラシーは、単に「人間関係が上手である」という話ではありません。自分と他者との「間」に、まだ何かが生まれる可能性を感じる力。そして、その可能性を育てていく力。

だから、相手を変えることだけが目的ではない。

自分も変わる。
場も変わる。
関係そのものが変わる。

そして、その関係の中から、最初にはなかったものが生まれてくる。
それが「共鳴」なのだと思います。

だから、「楽しみながら」も、単なる気分の問題ではありません。
楽しむことは、変化が起きた後にもらうご褒美ではなく、変化を生み出す方法そのもの。

悲壮感で人を動かすのではなく、「なんか面白そう」という感覚から、人が動き始める。

一人が楽しんでいる。
誰かがそれを見て、少し面白そうだと思う。
一緒にやってみる。
そこからまた別の誰かが動く。

そんな小さな共鳴が、やがて構造そのものを動かすことだってあるのだと思います。

■私がこれからやりたいこと

こうして考えると、これからやりたいことも、少し違って見えてきます。

◆ビジネスの世界では、働く喜びを取り戻したい。

人と仕事をつなぎ直し、人と人をつなぎ直し、個人の想いと組織の未来をつなぎ直す。そのために、例えばプロジェクトベースの働き方のような、新しい仕事の構造を実装していきたい。
そして、その中で自分自身が、誰よりも楽しそうに働いていたい。

「変態オブ変態」と笑われるくらい、心から楽しみ、その楽しみを周囲と分かち合うトップでいたい。目指したいのは、単に業績の良い会社ではありません。

人が、共鳴を諦めなくて済む会社。
それを次の世代に残したいと思っています。

◆社会においては、未来を諦めなくて済む構造をつくりたい。

人口動態や文化や制度によって、未来を担う世代が政治から疎外されてしまう状態を変えたい。子どもが、生まれた場所や家庭によって最初から未来を決められるのではなく、「自分も、この社会の未来に関われる」と思える社会をつくりたい。

若い人が、「どうせ大人が決めるんでしょ」と諦めるのではなく、「自分たちの声も届くんだ」と感じている。そして、「じゃあ、どうすればもっとよくできる?」と、誰かと未来について語り始めている。私は、そんな社会をつくりたい。

そのために必要だと思う制度を提案し、青臭い義憤を捨てず、胡散臭い理想を笑われても掲げ、泥臭く動き回りたい。まさに、「三大臭気の権化」です。

◆そして自然の中では、世界との共鳴を諦めない。

山に登り、自然の大きさを身体で知り、自分の小ささを知る。自分ではコントロールできないものが、この世界にはたくさんあると知る。それでも、関わることはできる。守ることはできる。残すことはできる。

100名山を踏破したいという願いも、そんな関係性を身体に刻んでおくためなのかもしれません。

■そして、つくりたいのは「シーン」なのだと思う

ここまで考えて、私は「未来の目標」を数字や肩書きだけで考えることをやめてみようと思いました。

代わりに、「どんなシーンが、この世界に増えていてほしいか」を考えてみたい。

●たとえば、会社の会議で。

立場も部署も違う人たちが、「それ、面白そう」と笑っている。まだ何の実績もない若手が、「これ、やってみたい」と言っている。それに対して、「前例がない」「予算がない」ではなく、「どうしたらできるかな?」「本当に成し遂げたいことは何なんだろう?」と、一緒に考えている。

●学校で。

子どもたちは主体的に学べることが当たり前になり、自らの可能性を自由に探究できる時間が確保されている。子どもが、「この校則、変えたい」と言ったならば、「決まりだから」で終わらせず、「なぜそう感じたの?」
「どうしたら変えられると思う?」と、一緒に考えている。

●地域で。

政治を諦めていた若者が、「自分たちの声も、未来に届くんだ」と気づいている。そして、誰かと未来について語り始めている。

●家庭で。

いつ、どこで、どんな家庭に生まれたとしても、生存や人権を脅かされることはなくなっている。子どもが何かに失敗したとき、「あなたには向いていない」「やめなさい」ではなく、「次はどうしてみたい?」と聞いてもらえる。

●誰かが弱さを見せたとき。

「役に立たない」と切り捨てられるのではなく、「そこにいること」そのものが大切にされている。

●山の中で。

自分の小ささに笑ってしまいながら、「それでも、この世界に関わっていこう」と思っている。この世界を残していくために、自分にもできることがあると感じ続けている。

●そして、私の本やNoteやYouTubeを見た誰かが。

「なんだ。自分にも、まだできることがあるじゃん」と立ち上がっている。

私は、そんなシーンが増えている未来を見たい。

■未来と今をつなぐ、私のありたい姿

だから、未来に向かうための「ありたい姿」も、少しずつ見えてきました。

これまで私は、

「社会に新たな価値を創造する挑戦者を増やすために、挑戦者と共に楽しみながら、自らの新たな挑戦を発信し続ける。」

と掲げてきました。今も、この言葉は大切です。ただ、その奥には、もっとシンプルなものがあるのだと思います。

構造を諦めない。
人も諦めない。
場も諦めない。
そして、共鳴を諦めない。

そのうえで、

楽しみながら、やってみる。
やってみたことを、分かち合う。
分かち合ったものから、また誰かがやってみる。

そんな人でいたい。

「自分が世界を変える」のではない。

自分が変わる。
誰かと響き合う。
小さな場が生まれる。
その場がまた誰かを動かす。

そして、気がついたら、構造のほうが少し変わっている。
そんな変化をつくりたい。

■本やNoteやYouTubeを「共鳴の増幅装置」にする

だから、書籍やNoteやYouTubeも、もう少し違うふうに捉えてみたい。

これらは「情報発信の手段」ではない。
共鳴を増幅する装置です。

自分の中で生まれた問いを、言葉にする。
誰かが読む。
その人の中で、何かが響く。
「自分もやってみよう」と思う。
その人が誰かに話す。
また別の場所で、何かが生まれる。

発信の目的を「影響力」に置くと、どうしても自分を大きく見せたくなる。

でも、共鳴を増幅することが目的なら、
自分がすごく見える必要はない。

むしろ、「自分だけが特別なのではない」と伝えたい。

私ができたことがあるのなら、他の誰かにもできるかもしれない。
私が構造の中で小さく動けたのなら、あなたにもまだできることがあるかもしれない。

その感覚を、次の人へ渡していく。
そんなメディアをつくりたいと思います。

おわりに──未来は「何者になるか」ではなく、「何を鳴らすか」

振り返ってみると、これまでnoteに書いてきたことは、単なる「学びの記録」ではなかったのかもしれません。

希望リテラシー。
変態経済学。
秘密基地。
DIY。
三位一体開発。
働く喜び。
子どもの未来。
共鳴。

一見すると、ずいぶんバラバラに見える。でも、それらは全部、「こんな未来が見たい」という未来宣言だったのだと思います。

そして、これまで自分が掲げてきた、

「社長になる」
「政治家になる」
「本を書く」
「100名山を登る」

という目標も、今では少し違って見えます。

それらは、未来そのものではない。
未来と関わるための手段なのです。

大切なのは、「何者になるか」ではなく、
「その未来に向かって、自分はどんな音を鳴らすのか」なのかもしれない。

未来は、遠くにあるゴールではない。
今、この瞬間の振る舞いの中に、少しずつ現れてくる。

だから、未来を語ることは予言することではありません。

まだ存在していない可能性に、
自分の意思で最初の一音を鳴らすこと。

その音に、誰かが響いてくれたらいい。
その人がまた別の場所で、別の音を鳴らしてくれたらいい。
そうやって、小さな共鳴があちこちに生まれていく。

もしかすると、社会を変えるというのは、そういうことなのかもしれません。

大きな号令をかけることではなく、
楽しみながら、一人ひとりが自分の音を鳴らし始められる状態をつくること。

私は、そんな未来を見てみたい。だから、これからも未来を語っていきたいと思います。まだ存在しないものを、存在するかもしれないものとして語ってみる。そして、その最初の一音を、自分から鳴らしてみる。

あなたは、どんな未来を見てみたいですか?

そして、そこに向けて、あなたはどんな音を鳴らしてみたいですか?

私は、その未来を、

構造を諦めず。
人も諦めず。
場も諦めず。
共鳴も諦めず。

楽しみながら、つくっていきたいと思います。

さあ、これから何をしましょうか☆

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