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成人発達理論は「人を測るための理論」ではなく、「構造に気づくための装置」である

はじめに──「わかったつもり」から、その先へ

これまで2回にわたり、成人発達理論について書いてきました。
第1回では、成人発達理論がなぜ私にとって一つの「救い」になったのか、そして同時に、世の中で語られている使われ方にどんな違和感を覚えてきたのかを整理しました。
第2回では、その違和感の正体──とくに「ラベリング」や「段階の優劣」に回収されてしまう危うさについて、もう少し踏み込んで考えました。

ここまでの2本は、どちらかというと
「成人発達理論をどう理解すべきか」
「どのように誤解されやすいのか」
という、理論そのものとの距離感を整える試みだったと思います。

一方で、書き終えたあとに強く残ったのは、
「で、結局それは、日常の実践の中でどう役に立っていたのか?」
という問いでした。

実は私自身、成人発達理論を
誰かを評価したり、説明したりするために使っていた時間よりも、
ワークショップの場、1on1、インタビュー、日々の部門運営、
そして家庭を含めた人との関わりの中で、
知らないうちに“頼っていた”時間の方が、圧倒的に長かったのだと思います。

それは、「相手はどの段階か?」と判断するためではなく、
「いまこの場には、どんな見え方が同時に存在しているのか」
「このズレや違和感を、どうすれば建設的に扱えるのか」
という問いを、自分の中に立ち上げ続けるためのレンズでした。

このズレを問題視せず、どう活用するかを即興で試行錯誤すること自体が、前作でも触れた、私にとってのDIY(でろ・いけ・やれ)の実践だったのだと思います。

第三弾となる本稿では、
成人発達理論を「正しく説明する」ことよりも、
自分自身の認知領域を豊かにする考え方として、どのように機能していたのか
に焦点を当ててみたいと思います。

誰かをラベリングするための理論ではなく、
「様々な認知構造の人がいる」ことを前提に、
それを問題化するのではなく、力に変えていくための参照枠として。

その意味で、これは成人発達理論についての記事であると同時に、
場の声を聴き、意味づけを更新し続けるための実践知の記録でもあります。



成人発達理論との距離感が変わってきた時間軸

私が成人発達理論に最初に出会ったのは、もう10年以上前のことです。
当時はスタートアップの代表をしておりましたが、

「なるほど、自己変容型の知性が最強なのか」
「そう在れるように、知識だけでなく、いろいろな経験をしないとな」

といった具合に、かなりぼんやりと受け取っていました。
理論は、自分が“強くなるための話”として存在していたように思います。

改めて深く学び直し始めたのは、2018-19年頃でした。
ティール組織に出会い、その背景にあるインテグラル理論を知り、
そこから関係の深い成人発達理論にも触れるようになりました。

当時の私は、組織開発やワークショップに深く関わり始めており、
これらの理論を「人や組織の成長を捉える指標」として使っていた感覚があります。
混乱した現場を整理し、状況を説明するための参照枠として、非常に有用でした。

さらに探究を深めたのが、この1-2年ほどです。
書籍だけでなく、第一人者による実践応用講座を修了し、
理論を「知っている」状態から、「使っている」状態へと移行していきました。

意見の衝突やコミュニケーションの不具合に直面するたび、
2018年以降は「参照できる理論」として成人発達理論が立ち現れ、
この1-2年でようやく、「身体知として活用できるもの」になってきた。
今振り返ると、そんな変化だったのだと思います。


「参照できる理論」としての成人発達理論

──“なんとかしなければ”の感覚

2018年以降、成人発達理論は
現場で起きていることを「参照」するための理論として機能していました。

たとえば、レゴ®シリアスプレイ®(LSP)や
ビジネスモデルキャンバス(BMC)を活用したワークショップでは、
参加者の「認知構造の違い」が、時にかなり明確に立ち現れます。

  • 作品は作れるが、そのストーリーを言葉にできない

  • 各ブロックの一次情報は豊富だが、全体像を語れない

  • 「べき論」や「制作都合」は語れるが、新たな意味付けができない

そうした違いに直面するたび、当時の私はどこかで
「この状態を、なんとかしないといけない」
「場に“乗せてあげないと”」
という感覚を抱いていました。

そしてこの状況をについて、成人発達理論を参照することで、

「なるほど、これは認知構造の違いだ」
「この人はいま、この見え方に立っているのだ」

と説明はできる。
しかしその説明は、多くの場合、
それらの「違い」を“介入すべき問題”と捉えてしまうこと
と表裏一体でした。


「身体知としての理論」へ

──違いを“活用する”という発想への転換

ここ1-2年ほどで、この感覚は大きく変わってきました。
成人発達理論が、頭で参照するものから、
場の中で自然に働く感覚装置へと移行してきたのです。

同じLSPの場面でも、例えば
「作品のストーリーを十分に語れない」という状態を、

不足や未達として捉えるのではなく、
それでも参加できているというLSPの構造そのものに
目が向くようになりました。

言葉にできない人がいても、その存在が場から排除されないことが
全員の心理的安全性につながること。
むしろ、沈黙や断片が、他の参加者の意味づけを豊かにすること。

それこそが、LSPの最大の強みなのだと、
身体感覚として理解できるようになってきたのです。

BMCにおいても同様です。
9つのブロックを物語として統合できる人ばかりではありません。

しかし、

  • 特定のブロックに関する一次情報を豊かに持っている人

  • 顧客や現場の具体像を、細部まで語れる人

そうした人が仲間として場に存在することで、
全体の理解や価値創出は、むしろ厚みを増していきます。

重要なのは、違いを埋めることではなく、
どう配置し、どう循環させるかなのだと、
捉え方が変わってきました。

※LSPに関してはこちらもご参照ください

※BMCに関してはこちらもご参照ください


日常業務における「乗り切れなさ」も、資源になる

この変化は、ワークショップに限らず、日常業務にも波及しています。

会議や1on1で、どうしても議論に乗り切れない人がいる。
話が噛み合わない瞬間が生まれる。
誰かが誰かを批判的に捉えてしまう場面もある。

以前の私であれば、
「どう支援すれば乗れるのか」
「理解を揃えないといけない」
と考えていたと思います。

しかし今は、それらを解消しようとするよりも、
その一拍遅れやズレそのものを手がかりに、

  • この場には、どんな認知構造が同時に存在しているのか

  • この違いを活かすとしたら、意味づけをどう更新できるか

という問いが、
モヤモヤや違和感、時にヒリヒリする場面でも、
自然と立ち上がってくるようになりました。

成人発達理論は、人をラベリングするための理論ではなく、
場に存在する多様な見え方を、孤立させずに共存させるためのレンズ
として機能し始めているのだと思います。

もちろん、全ての場面においてそう在れるわけではないのですが、
一つのモードとして、獲得できた手応えをもってもおります。


おわりに──理論は「答え」ではなく、伴走者である

成人発達理論は、答えを与えてくれる理論ではありません。
むしろ、問いの質を変え続けるための枠組みなのだと思います。

「なぜ相手はそうなのか」ではなく、
「なぜ自分はいま、そう見えているのか」。

そしてさらに、
「この違いを、この場でどう活かせるのか」。

その問いに立ち続けるために、
理論は外に置かれた物差しではなく、
自分の内側で静かに働く感覚装置として存在している。

これは、理論をできるだけ精緻に学び続けた結果、
あえて理論を思い出そうとしなくても、
目の前の人や現象に集中できるようになった状態だと感じています。

成人発達理論をそのように扱えるようになったとき、
それは再現性のある方法論ではなく、
実践の中で意味づけを更新し続けるための知的インフラ
になるのではないでしょうか。


最後までお読み頂きありがとうございました☆

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