文字を持たなかった昭和 終末期29 「ひじんごろし(餓死)」

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは「万一」も考えて鹿児島へ向かったが幸い容態は安定した。

 「その後の容態」(2025/3/1掲載)に記したとおり、ミヨ子さんは低空飛行を続けながら最後の到達点に向けてゆっくりと高度を下げている状態だ。その間にミヨ子さんは驚くべき復活を見せもし(3月6日)、3月10日には病床で誕生日を迎えた。

 「ひじんごろし」。ミヨ子さんの状況を気にしながら日々過ごす中、ある朝布団の中でふいにこの鹿児島弁を思い出した。タイトルに( )書きしたとおり、その意味は餓死だ。愛用する「鹿児島弁ネット辞典」によれば、「飢死(ひじ)に殺し」または「干死に殺し」の転訛らしい。

 なぜそんなことを考えたか。

 いつか詳しく書く機会があるかもしれないが、ミヨ子さんの母親・ハツノさんは、自宅で寝たきりになった晩年、同じ敷地に住むお嫁さんの世話を受けていた(何度も書くが昭和から平成の始め「介護」という言葉も概念もなかった)。

 お嫁さんのお世話は十分とは言い難く――という状態であることは、時々見舞う孫娘(わたし)の目にも明らかだった――なんとも言えない気分で「ばあちゃんの家」を後にすることばかりだった。

 そしてハツノさんが旅立ったとき。ハツノさんは明らかに痩せこけて、簡単に言えば骨と皮のようになっていた。終末期、本人が食べ物を摂取できる状態でなかった部分もあるだろうが、それ以前に意図的に食事量を減らしていたことは、ふだんのお世話の様子から見てとれた。

 そのことは、親族や近所の人の多くは薄々感じていながらも、口に出せずじまいだった。ミヨ子さんの実家は同じ集落にあり、わたしもしょっちゅう遊びに行ってはばあちゃんといろんな話をしていたから、終末期と最期の姿はただ悲しく、衝撃でもあった。

 葬儀など一連のことが終わった頃だったか、ミヨ子さんは自分の母親の終末期と最後を振り返って
「ぶんと ひじんごろしじゃったあよ」(まるっきり餓死みたいなもんだったわよね)
と言った。

 ミヨ子さんとしては実の母親のために何かしたかっただろうが、諸般の事情により――親族間の愛憎や田舎特有の複雑な人間関係も影響した――口も手も出せなかったのだ。その無念さとともに、わたしの中に「ひじんごろし」という言葉は深く刻まれ、今日に至っている。

 さて、ミヨ子さんである。

 わたしがふいにこの言葉を思い出したのは、ミヨ子さんも「ひじんごろし」のような状態ではないのか、という思いがずっとあるせいだと思う。「終末期」のタイトルにしてから何回か触れている通り、病院側は、もう本人には苦痛はないと言う。飢えは感じないという意味も含んでいるだろう。

 しかしほんとうにそうなのか? ミヨ子さんは、まだ(ほんの僅かでも)食べられる状態にあって、何かを差し出せば食べようとするのではないか? なのに、例えば誤嚥性肺炎を防ぐために一切の経口摂取は(早々に)止めてしまい、点滴に切り替えられた。

 ミヨ子さんは、本当は食べたいと思っているのではないか? もしそうだとしたら、今の状態は「ひじんごろし」と同じだろう。自分の母親と同様に――。

 そんな無念を残しておきたいと思った。「医療的には問題ない」「本人はもう意識がはっきりしてないのだから」という正論とは別の問題として。(次は「危篤?」)

《参考》鹿児島弁ネット辞典>ひじんごろし

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