文字を持たなかった昭和349 梅の実のある風景(10)もうひとつ番外、最近の梅の木
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近では、保存食品として毎年手作りしていた梅干しをテーマに書いた。ついでに梅の実にまつわるエピソード、日の丸弁当や砂糖梅、梅酒にまつわる光景などを述べ、前項の「ゆかり」で一段落するつもりでいた。
が、梅の実関係でもうひとつ思い出したことを書き加えておきたい。
と言ってもミヨ子が現役主婦だった頃のことではなく、12年前夫に先立たれたミヨ子が、その数年後長男の和明(兄)と同居を始めてから建屋を取り壊した実家「跡」に、いまも残っている梅の木の話である。
この次の項でも触れるつもりだが、最近和明が上京し話す機会があった。とりとめない会話の中で、いったん更地にした実家跡に、4~5年前に改めて植えた数株の果樹の中で、枇杷はけっこうよく育っている、と聞かされた。 もともと庭にあった枇杷の木が台風で傾いでいたので、ほかの果樹を植える際、その枇杷も植え直してほしいと二三四(わたし)が頼んだのだった。
「剪定したら、けっこう大きな実が生ったよ。やっぱり栄養が少ない実に集中すると違うんだな」
と和明。
「へぇ。庭の枇杷はいっぱい実が生ってそれなりにおいしかったけど、種ばかり大きくて食べにくかったもんね。剪定すれば実が大きくなるんだね。首都圏でもいまごろになると長崎産の枇杷が5個入り600円くらいで売ってるけど、買ってまで食べる気にはならないなあ」
と二三四。
続けて和明が
「そうそう、梅の枝も剪定したら、大きな実が採れた。もっと高い枝も切りたかったけど、ふつうの鋸だから低いところしか切れなくて。それでもかなり大きな実になったよ」
「うちのやつ(義姉)が『完熟した梅がほしい』っていうから、落ちていた梅をかなり拾って持って帰った。梅ジャムとか、いろいろ作ってるよ」
そうか。
ミヨ子が現役主婦だった頃の梅の実拾い、そして梅の木については「329 梅干し(1)梅の木」と「330 梅干し(2)梅の実の収穫」で述べた。当時は、庭に梅の木があること、梅の実が採りきれないほど生ること、それを使って梅干しや梅酒を作ること、そしてそれらの作業に家族――内容によって全員ではないにしても――で関わることを、誰もが当たり前に思い、次の年もその先も同じ作業が巡ってくると思ってもいた。
しかし家族が一人消え、二人消え、梅干しを漬ける人はいなくなった。建屋そのものもなくなった。それでも、あの梅の木は残り、いまも実をつけ、なにがしかの形で当時はいなかった世代――和明の子供たちや孫たち――につながっている。
ならば、たった一人から徒手空拳で畑や家屋敷を買い広げた吉太郎(祖父)の苦労も報われるのかもしれない。
梅雨晴間が眩しい一日に、そんなことを思う。
