文字を持たなかった昭和404 介護(23) まとめ
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
22項にわたり、ミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書きいてきた。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった当時の状況(①、②)、舅・吉太郎(祖父)のお世話(①、②)、そして姑・ハル(祖母)のお世話。「徘徊」や粗相、ほとんど寝たままの状態になったこと。手縫いのおむつ、食事のお世話、ほとんど入れてあげられなかったお風呂、そしてお別れ。
振り返ってみると、日々のお世話の複雑さ、かける時間や労力の大きさに驚く。それらを農作業と両立した、というか両立することを当然のこととして迫られたミヨ子に、改めて敬服する。
舅・吉太郎は2週間ほど寝込んだ程度で、潮が引くように人生の幕を閉じた。
いっぽう姑のハルは、当時でいう「ボケ」の予兆から考えると、家族は数年間ハルの変化――よくなることはない――につきあったわけで、寝たきりに近い状態、あるいはほとんど寝たきりになってからの半年ほどは、お世話にかける労力はより大きくなった。
以下については、昭和40~50年代の状況として改めて強調しておきたい。
一.認知機能低下への認識がほとんどなかった(とくに一般人には)
栄養の改善、衛生状態や医療技術の向上(健康保険制度の拡充を含む)により「体は」元気な高齢者が増え、寿命もどんどん延びていくが、体の機能を制御する脳もまた老化したり支障を来したりすることはあまり認識されていなかった。認知機能の低下は「ボケ」と呼ばれ、ボケ(脳)の研究は、老化・衰退する肉体への対応のずっと後を追うことになる。
ボケのメカニズムがよくわからないまま、ボケが招いた(と思われる)さまざまな現象――徘徊など――には、対症療法的に対応するしかなかった。それによって本人にどんな(悪)影響を与えるのか、といった研究はまだ進んでおらず、お世話にに携わる当事者ももちろん知識を得る術がなかった。
二.介護のための製品がなかった
いまならあって当然の大人用おむつですら商品化されていなかった(一般の誰もが考えてもみなかっただろう)。衛生用品(除菌〇〇の類の使い捨て用品)、食事に使う用具、体の状態に合わせて使う便利な道具などなど、まったくないに等しかった。その中で、各家庭では自分で、あるいは同じような状況の知人などの知恵を借りて、少しでもよいお世話ができるよう工夫するしかなかった。
三.介護を公的にフォローする制度がなかった
「介護保険法」の制定は1997年、施行は2000年。高齢者向けの施設が限られる中、介護が必要な高齢者のお世話は、ほとんどの場合同居する家族が抱え込んだ。(介護制度については「介護(1)当時の状況①」でも触れた)
四.在宅介護の担い手は女性だった
一.~三.とも関連するが、高齢のため生活に支障のある家族がいれば、多くの場合そのお世話は「嫁」の役割だった。とくに三世代同居の農村においては。妻がまだ若い場合は妻や、結婚していない娘がいれば娘が担うこともあった。いずれもほぼ女性である。
以上、素人ながらこうして並べてみると、当時のお世話の大変さが際立つ。同時に、在宅介護とそれに伴う問題がいまも――というか、より複雑になりながらいまでも――続くことに一種の失望も覚える。
日本が長寿国であることを誇ってきた裏側で、幸せな老後とそれを支える人たちの幸せ、少なくとも負担の軽減ということについて、どのくらいの現実感、当事者意識とともに、われわれは考えてきたのだろう?
わたしは真剣に考えてきたとは言えない一人だ。そしていま、母親の老いに直面している。
