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カリストとアルカスと熊野久須毘命――熊は何故、星になったのか(後編)

前編の最後に、僕はこう書いた。
なぜカリストは星になっても、「熊」の名を冠せられたのだろう。
その「なぜ」は、昨日、僕が熊野久須毘命という神の名に感じた「なぜ」と重なった――。
熊野久須毘命。

ここから先は、少し不思議な話になる。
もちろん、古代ギリシャのカリスト神話と、日本の熊野信仰に直接のつながりがあると言いたいわけではない。
そんな証拠はない。
ただ、別々の場所で生まれた物語を並べてみると、そこに奇妙な共鳴が起こる。
僕は、その共鳴をもう少し追ってみることにした。

まず気になったのは、誓約によって生まれた八柱の神々だった。
八柱の最後に、他の七柱とは明らかに異質な名前を持つ神がいる。
熊野久須毘命。
八柱という数のなかに、
7+1
という構造が隠れているように感じた。
なぜ、この神だけが「熊野」という言葉を冠しているのだろう。

そして『日本書紀』の異伝を調べていくと、さらに気になる名前が現れた。
熊野大角命。
熊野久須毘命と熊野大角命。
僕がどうしても気になったのは、
「大角」
という言葉だった。

大角。
これは古代中国の星辰体系における星名で、現在のアークトゥルスを指す。
夜空でもひときわ明るく輝く星だ。

つまり、
熊野久須毘命

熊野大角命

大角という星名

アークトゥルス
という線が、僕の中でつながった。

もちろん、「熊野大角命」がアークトゥルスそのものを意味していたと証明されたわけではない。
ここから先は、あくまでも僕の仮説だ。
けれど、神の異伝に現れた「大角」という名前が、実際に天空の重要な星を指す名前でもある。
僕には、それが気になった。

そして、熊野信仰には熊野曼荼羅があり、そこには北斗七星が描かれている。

地上の熊野と、天空の北斗七星。
ここにも、地上と天空をつなぐ視線がある。
そして、北斗七星の尾の先にあるアークトゥルス。
この星には、僕が以前から気になっていた呼称がある。

熊の番人。

ここで、カリストの物語が再び現れる。
カリストは熊になった。
そして星になり、大熊座になった。
その近くには、熊の番人がいる。
息子のアルカスもまた星となり、うしかい座となったという伝承がある。
そして、うしかい座でひときわ明るく輝く星が、アークトゥルスである。

ここで、僕は一つの仮説を立ててみた。
アルカス=アークトゥルス。
そして、先ほどの仮説を重ねるなら、
熊野久須毘命=アークトゥルス。
つまり、
熊野久須毘命=アルカス=アークトゥルス。

もちろん、これは史実ではない。
僕自身の仮説だ。
けれど、この仮説を置くことで、アルカスの物語がもう一度、違った姿で見えてくる。

そして、母であるカリストは、人間として野生を見たあと、自らが熊となり、人間と野生の両方を経験した。
ところが、視座の全体性を獲得したカリストは、人間中心の視座に立つアルカスによって、殺されそうになる。
その瞬間、カリストもアルカスも星になる。

星となったアルカスは、母から何かを受け継いだのではないか。
母熊が子熊に森を教えるように。

そしてアルカスは、熊を見る者から、全体性の視座をもって熊を見守る者へと変わった。
人間として熊を見ていたアルカスが、星になることで、熊を見守る側へ移った。
それは、単なる場所の移動ではない。
視座の位相転換なのではないか。

もしそうだとすれば、熊野久須毘命という神の姿も、少し違って見えてくる。
熊そのものではなく、
熊を見守る側に立つ存在。
そんな姿が浮かんでくる。

ここで僕は、最初に感じた「八柱」の違和感に戻った。
八柱の神々。
その最後に置かれた、他とは異質な一柱。
熊野久須毘命。
八柱の名前を並べてみると、その違いはさらに気になる。
天忍穂耳命。
天穂日命。
天津彦根命。
活津彦根命。
そのなかに突然、
熊野久須毘命。
「熊野」という地名を冠した神が現れる。

もちろん、これだけで「八柱のうち七柱が北斗七星で、熊野久須毘命だけがアークトゥルスだった」と証明することはできない。
そんな古代資料があるわけでもない。
けれど、もしこの八柱を天空の構造として読むことが許されるなら。
僕には、
七つの側と、その外側に立つ一柱。
という構図が見えてくる。

大熊座。
その中にある北斗七星。
七つの星。
そして、その熊を見守る一つの星。
7+1=8。

冒頭で感じた「八柱の最後に置かれた異質な一柱」という違和感が、ここでつながってくる。
七つの星がある。
そこに、一つの星が加わる。
その一つは、七つのうちの一つではない。
七つを外側から見渡し、照らし、見守る。
その構造を、僕は「祝」という言葉と重ねてみたくなる。

では、なぜ人間は、夜空の重要な星々に「熊」を見たのだろう。
僕は、そこにも畏敬の念が働いていたのではないかと思う。
人間が地上で出会う熊は、単なる動物ではない。
森の奥深くに生き、人間の世界とは異なる秩序のなかにいる。
恐ろしい。
けれど、恐ろしいからこそ敬う。
人間の世界と、人間には容易に踏み込めない野生の世界。
その境界に立つ存在。
もしかすると古代の人々にとって、熊とは、
この世と、あの世の境界から現れる存在
だったのではないか。
だからこそ、その熊を天空にも置いた。
大熊座。
北斗七星。
そして、その熊を見守るアークトゥルス。
地上で畏敬した存在を、天空へと上げる。

そう考えると、熊野という場所もまた、違って見えてくる。
熊野は、現世と異界、生と死の境界にある聖地として発展した。
そして熊野には、「死と再生」という大きな物語がある。
一度、日常の世界を離れる。
異界を通過する。
そして、もう一度こちら側へ戻ってくる。
死から再生へ。
その構造は、8という数字にも重なってくる。

西洋の象徴体系では、8は復活や新しい創造と結びつけられることがある。
7で一つの周期が完結し、その先に8がある。
7から8へ。
完成から、その先へ。
終わりから、新しい始まりへ。

そして僕は、8という数字の形そのものにも惹かれる。
8を横に倒せば、

になる。
もちろん、数字の8と数学記号としての∞が、歴史的に同じ意味を持つわけではない。
これは僕自身の連想だ。
けれど、
終わりが始まりにつながる。
こちら側からあちら側へ行き、またこちら側へ戻ってくる。
そんな循環が、8という形には見えてくる。

カリストは、人間から熊へ、熊から星へと移った。
アルカスもまた、人間から星へと移った。
熊野では、生と死が循環する。
そして、七から八へ移る。
別々の物語を追っているはずなのに、僕の前には何度も同じ構造が現れる。

境界を越える。
そして、その先で新しい位相へ移る。
ここまで考えてきて、僕は「八」という数字に感じていた「祝」の意味を、少し違う角度から考えるようになった。

祝うとは、ただ喜ぶことではないのかもしれない。
何かを勝ち負けで測ることでもない。
何かを支配することでもない。
そこに存在するものを認める。
その存在を見つめる。
そして、
畏敬の念をもって、その存在がそこにあることそのものを肯定する。

七つのものがある。
そこに、一つが加わる。
その一つは、七つのうちの一つではない。
七つを外側から見渡し、照らし、見守る。
その視座そのものが、「祝」なのではないか。

人間だけではない。
熊も。
森も。
星も。

死する者も、生ける者も。

それぞれが、それぞれの場所に存在している。
その存在を認め、見守る。
そして、その存在が次の位相へ移っていくことを受け入れる。

カリストが熊になったことも。
熊が星になったことも。
母から子へ、何かが受け継がれていくことも。
熊野で、生と死が循環することも。
すべてが、どこかでつながっているように見えてくる。

祝。

それは、世界に存在するものを、そのままの存在として受け入れ、畏敬することなのかもしれない。

そして、ふと『HIGUMA KARMA』のことを思った。
これまで僕が撮ってきたもの。
これから僕が撮ろうとしているもの。
まだ、そのすべてが何を意味するのか、僕自身にも分からない。
けれど、「祝」という言葉をここまで追ってきたあとでは、これまでとは少し違った目で、この映画を見つめ始めている。

長々と考察を進めてきた。
そろそろ撮影の準備をしよう。
明後日から『HIGUMA KARMA』の撮影で、秋田へ向かう。
8888のナンバーをつけた車を走らせて。

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「虚空門GATE」監督 小路谷秀樹 Hideki Koujitani 『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。 もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。 いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。