あなたの体にポートフォリオは組めない
「先生、80%大丈夫ですよね」
呼吸器内科の専門外来でこう言われたことがある。
「肺がんってI期で見つかれば5年生存率80%超えてるんですよね。早期発見すれば大丈夫っしょ」
この人はタバコをたくさん吸っていた。
自分はこう返した。
「80%は100人の話です。 あなたが100人いるわけじゃないですよ」
「あなたは生きるか、死ぬか。 0%か100% です」
「ちなみにI期で見つかれば82%。でも進行してIV期で見つかったら、5年生存率は 8.6% です。早期発見できなかったとき、あなたはどっち側に入りますか」
国立がん研究センターの院内がん登録データによると、肺がんのステージ別5年生存率は I期81.9%、II期51.7%、III期29.3%、IV期8.6%(※1)。ステージが1つ上がるごとに生存率はほぼ半減する。
彼は黙った。10秒くらいだったと思う。でも、その沈黙のあいだに何かが変わった気がした。彼はその後、禁煙してくれた。
なぜこの一言で行動が変わったのか。
それは、彼の中で「確率」の意味がひっくり返ったからだと思う。
今回は、この「確率の意味がひっくり返る」感覚を、
エルゴード性(Ergodicity)
という概念を使って掘り下げてみる。
※プライバシー保護のため複数の事例をもとに再構成しています。実在の特定の個人とは関係ありません。
100人が1回やるのと、1人が100回やるのは違う
わかりやすくするために極端な例を出す。
ロシアンルーレット。
6発のうち1発だけ弾が入った拳銃を構える。引き金を引く。
生き残る確率は83%。
では質問。
100人が1回ずつ引く。この場合、平均83人が生き残る。
統計としてはそうなる。悪くない数字に見える。
1人が100回引く。この人はどうなるか。
死ぬ。ほぼ確実に。
83%を100回繰り返すと生存確率は(5/6)の100乗で、 約0.0000012% 。宝くじの1等に当たる確率より低い。
数字は同じ83%なのに、「誰が」「何回」やるかで結果がまるで変わる。

この違いを数学的に整理した概念がある。
エルゴード性(Ergodicity)という。
もともとは物理学の用語だけど、ざっくり言うとこういうことになる。
「みんなの平均」と「あなた1人の時間軸での結果」が一致するか、しないか。
一致するなら「エルゴード的」。しないなら「非エルゴード的」という。
用語はどうでもよくて、大事なのは、あなたの健康がどっち側かということだ。
ロシアンルーレットは非エルゴード的。100人の平均(83%生存)は、1人の100回(ほぼ確実に死亡)とまったく一致しない。
ニコラス・タレブは『Skin in the Game(身銭を切れ)』の中でこの問題を繰り返し書いている。100人がカジノに行くのと、1人がカジノに100回行くのはまったく別の数学だ、と。
100人がカジノに行けば、大勝ちする人も大負けする人もいて、平均すればカジノの取り分だけマイナスになる。でも1人が100回通うと、負けが積み重なってどこかで破産する。 破産した時点でゲームオーバーだ。次はない。 100人の平均には「破産」が織り込まれていない。でも1人の時間軸には「破産」がある。ここが決定的に違う。
人間は「平均」で考える。でも人生は「平均」を生きない。あなたは1人。あなたの人生は1回。あなたの体は1つ。平均は関係ない。
なぜこれが健康の話になるのか
ここから先が、自分が外来で繰り返し感じていることの話になる。
ロシアンルーレットに参加する人はいない。でも毎晩「今日くらいいいか」と言いながら引き金を引いている人は大量にいる。
毎晩の晩酌を「まぁ大丈夫だろう」と続けるとする。仮に、1回の飲酒で肝臓に微小なダメージが蓄積する確率をたった1%とする。
1回なら99%セーフ。でも毎日10年続けたら?
0.99の3650乗。答えは限りなくゼロに近い。
「10年間まったくノーダメージ」の確率は実質ゼロになる。

1回1回は誤差に見える。でも 「1人の人生の時間軸」で見ると、ダメージは確実に積み上がる。
話がそれてしまうけれど、自分がトレーニングを続けてきて思うのは、筋肉の蓄積もまったく同じ構造だということだ。1回のスクワットでは何も変わらない。でも10年やると体は全く別物になる。プラスもマイナスも、時間軸で積み上がるという点ではまったく同じ。
これがエルゴード性の怖さ。集団のスナップショットでは見えない。時間軸を通すと見える。
「適度な飲酒は体にいい」が崩れていく話(Jカーブと飲酒のエビデンス)

ここでちょっと具体的な話をする。
「適度な飲酒は健康に良い」と長いこと言われてきた。根拠はJカーブ仮説。まったく飲まない人より適度に飲む人のほうが心臓や血管の病気になりにくい、というデータがあった。
自分も以前は飲んでいた。付き合いで、週2~3くらい。「これくらいならまぁいいか」と。医者でも普通に飲む人は結構飲んでいる。
でもこのJカーブ、近年の研究で前提が揺らいできている。
2023年にアメリカの医学誌に掲載された約480万人のデータをまとめた研究で、過去のデータに含まれていたある偏り(体を壊して酒をやめた人が「飲まない人」グループに混ざっていた問題)を補正したところ、 「少し飲む人のほうが長生き」という結果は消えた(※2)。
2022年にLancet(世界で最も権威ある医学誌の1つ)に掲載された204の国と地域を対象にした大規模研究でも、39歳以下では「健康リスクが最も低くなる飲酒量」は ほぼゼロ 。40歳以上でも 1日約0.5杯 程度だった。
そして2025年1月、米国公衆衛生局長官(Surgeon General)が勧告を出した。アルコールは米国でタバコ、肥満に次ぐ 第3位の予防可能ながんの原因 であり、年間約10万件のがん症例と約2万件のがん関連死に寄与していると。少なくとも7種類のがんとの関連が確認され、タバコと同様の警告ラベル更新を議会に求めた。
「飲酒と健康」は今まさに専門家の間で激しく議論されている最中であり、完全な決着はついていない。ただ方向は明らかだ。「適度な飲酒は体にいい」という以前のメッセージは、研究の方法に含まれていた偏りを正すと根拠が弱くなる。少なくともがんリスクという軸では 飲酒量ゼロが最も安全 というのはほぼ確実で、心臓や血管への影響は専門家の間でも結論が出ていない。
ここまでが集団レベルの話。でもあなたの体はどうか。
あなたのアルコール分解酵素の活性は? あなたの肝臓の状態は? あなたの家族歴は? 全部「平均」とは違う。
「平均的には大丈夫」を信じて10年飲み続けた結果、肝硬変になった人を自分は何人も診ている。その人たちの前で「でも統計的には…」と言えるか。自分は言えない。
確率は集団を記述する。でも確率はあなたを守らない。
睡眠負債もエルゴード的に積み上がる
飲酒の話が長くなったけど、もう1つ、時間軸で積み上がる例を出す。
睡眠。
「昨日5時間しか寝てないけどまぁ動けてる」という人、経営者にめちゃくちゃ多い。自分の患者さんでも半分くらいがそう言う。
1日の睡眠不足は、たしかにその日はなんとかなる。コーヒー飲めば会議もこなせる。翌日ちゃんと寝れば回復した気になる。
でもこれ、本当に回復しているのか。
これもエルゴード性の話になる。「100人が1晩だけ5時間睡眠」と「1人が毎晩5時間睡眠を3年」はまったく別の結果になる。
前者は翌日パフォーマンスが落ちるだけ。後者は判断力の慢性的な低下、血糖値の乱れ、免疫の低下、心臓や血管への負担の蓄積。体がじわじわ壊れていく。本人がそれに気づかないのが厄介で、慢性的な睡眠不足では「眠い」という感覚が消えても、実際のパフォーマンス低下は残るということが知られている。

「慣れた」んじゃなくて「気づけなくなった」だけだ。
トレーニングしていると実感する。睡眠を削った週はスクワットが明らかに重い。数字は嘘をつかない。でも睡眠不足の自覚は意外とない。体は正直なのに脳が鈍感になっている。
1日の睡眠不足は誤差。でも「1人の人生の時間軸」で見ると、集団の1晩の平均とはまったく違う景色になる。
ちなみに、睡眠の質を上げる方法は別の記事で書いた。
「平均で安全」なものを足す怖さ
ここまで「引く」話をしてきた。酒を引く。睡眠不足を引く。ではその逆、「足す」のはどうか。
たとえばサプリ。
経営者の患者さんに多いのが、健康診断でコレステロールが高いと言われたけど薬は飲みたくないから、ネットで調べてサプリを3種類飲み始めました、というパターンだ。
経営に例えると「社内に専門家がいるのに、ネットで見つけた節税テクニックを3つ同時に試して会計がぐちゃぐちゃになった」みたいな話だ。専門家に相談すれば済むのに、自己判断で手数を増やしてリスクを増やしている。
3ヶ月後に肝機能の数値が跳ね上がった人がいた。サプリの成分がこの人の体質に合わなかったんだと思う。
「でも先生、エビデンスがあるって書いてあったんですけど…」
エビデンスはある。集団の、平均の、エビデンスは。でもその臨床試験にあなたは参加していない。あなたの肝臓で、あなたの体質で、あなたが飲んでいる他の薬やサプリとの組み合わせで試したわけじゃない。
集団の平均で「安全」だったものが、「この1人」にとっては有害だった。これもエルゴード性の問題だ。 100人の平均結果は、あなたの結果を保証しない。
前回の記事で書いたVia Negativa(否定の道)の話がここにつながる。
「なにを足すか」は不確実。「なにをやめるか」は確実。
「集団の平均で安全」なものを足すのは、あなたが平均から外れている可能性がある以上、賭けになる。「確実に害があるもの」をやめるのはノーリスク。タバコが体に悪いのは平均も個人も関係ない。
不確実なものを足すな。確実に害があるものを引け。 そして「平均」を自分に当てはめない。
この3つが揃ったとき、健康の意思決定は格段によくなると自分は思っている。
なぜ自分だけは大丈夫だと思ってしまうのか
人間は数字に強いほど、この罠にハマりやすい。
決算書は1円単位まで読むのに、健康診断の結果はA判定かどうかしか見ない経営者を何人も知っている。でもこれは経営者に限った話じゃない。
「この検査値は基準範囲内だから大丈夫」「週2回の飲酒なら問題ない」「BMIは正常だし」。こういう判断をしている人は多いと思う。これは全部「平均」の話をしている。
仕事では、たとえば営業先を100件回れば、1件断られても次がある。投資でも何十もの案件にベットできるから、1回の失敗は誤差で済む。分散が効く。これが集団の数学だ。
でも体は1つしかない。分散が効かない。
仕事の失敗はやり直せる。転職もできるし、事業も立て直せる。でも脳卒中で半身不随になったら、やり直しはきかない。がんが進行してから見つかっても、時間は巻き戻せない。

タレブの言葉を借りれば、 リスク管理の目的は利益でも損失でもない。生き残ることだ。
家で帰りを待っている人がいる。週末に「パパ」「ママ」と呼ぶ人がいる。あなたがいなくなったら世界が変わってしまう人がいる。
その人たちにとって、あなたの体はポートフォリオの1銘柄じゃない。
全財産だ。
自分がいちばん怖いと思っていること
最後に個人的な話をする。
たぶん同世代の平均よりは健康だと思う。トレーニングも続けているし、数値も悪くない。
でも 「平均より健康」は意味がない。 自分の体は1つ。自分の人生は1回。
明日、脳卒中で倒れるかもしれない。来年、がんが見つかるかもしれない。確率的には低い。でもゼロじゃない。そして自分がそうなったとき、「でも統計的には…」は何の慰めにもならない。
だから自分は人間ドックを毎年受ける。異常なしであっても、だ。だから体に悪いものを引き続ける。だから「正しい負荷」を与え続ける。
自分にとって自分の体は1つ。でも家族にとっても、自分は1人しかいない。代わりがきかない。 子どもが「パパ」と呼ぶ相手は世界に1人だけだ。
統計的にどうかなんて、家族には関係ない。
平均を信じるんじゃなくて、最悪に備える。
あなたの健康判断が「平均の罠」にハマっていないか
最後にチェックしてほしい。
☑︎「基準範囲内だから大丈夫」で止まっていないか
基準範囲は集団の95%が収まる幅にすぎない。あなたにとっての最適値とは限らない。去年の自分の数値と比べて、変化を見ているか。
☑︎「平均で安全」を根拠に何かを足していないか
サプリ、健康食品、民間療法。集団で効果があっても、あなたの体質で検証されていない。足す前に「確実に害があるもの」を引くほうが先だ。
☑︎「まだ大丈夫」を時間軸で検算したか
今日1回は誤差でも、10年続ければ確率は反転する。「毎日1%のリスク」は10年で実質100%になる。
☑︎ 睡眠不足に「慣れた」と思っていないか
慣れたのではなく、気づけなくなっただけかもしれない。5時間睡眠が平気なのは、パフォーマンスの低下を測る手段がないからだ。
☑︎ 健康診断を「異常なし」で終わらせていないか
A判定でも、前年比で数値が動いていれば体は変化している。異常が出てからでは、ステージが1つ上がっている可能性がある。
☑︎「自分だけは大丈夫」の根拠は何か
若いから、鍛えているから、家系的に大丈夫だから。それは全部「平均」の話だ。あなたの体で確かめたわけじゃない。
1つでも心当たりがあるなら、それが「平均の罠」だ。
平均は、あなたを守らない。あなたは1人しかいない。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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もっと深く知りたい方へ(関連記事)
「平均の罠」を抜けた人が、次に読むと自分の体に針を向けられる2本。
▼ 健康診断の「異常なし」を疑う実践編
本記事の「基準範囲内=平均」を、実際の検査項目レベルでひっくり返した記事。経営者にすすめている追加検査と、自分の数値の動きの追い方をまとめた。
▼ 「正しい負荷」を与え続ける、の科学的裏付け
本記事の最後に出てきた「正しい負荷を与え続ける」をホルミシスの観点から書いた。筋トレ・断食・冷水・献血を貫く「適量で強くなる」原理の話。
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※本記事は一般的な健康・医学情報の提供を目的としたものであり、特定の個人に対する診断・治療・医学的助言を行うものではありません。健康上の懸念がある場合は、必ず医療機関を受診してください。記事の情報に基づく行動の結果については、筆者は責任を負いかねます。
📎 参考文献
Peters O. The ergodicity problem in economics. Nat Phys. 2019; 15: 1216-1221.
Taleb NN. Skin in the Game. Random House. 2018.
GBD 2020 Alcohol Collaborators. Population-level risks of alcohol consumption by amount, geography, age, sex, and year. Lancet. 2022; 400(10347): 185-235.
Zhao J, et al. Association Between Daily Alcohol Intake and Risk of All-Cause Mortality. JAMA Netw Open. 2023; 6(3): e236185.
U.S. Surgeon General's Advisory on Alcohol and Cancer Risk. Office of the Surgeon General. January 2025.
国立がん研究センターがん情報サービス「院内がん登録生存率集計」(2015年診断症例).
📝 注釈
※1 具体的には免疫チェックポイント阻害薬や分子標的薬など。2015年以降に承認された薬剤が多く、現在の治療成績はこのデータより改善していると考えられる。
※2 Zhaoらのメタ解析(JAMA Netw Open 2023)は107のコホート研究・約480万人を統合。「sick quitter bias」とは、健康上の理由で飲酒をやめた人が「非飲酒者」に分類されることで、非飲酒群の死亡率が不当に高くなり、適度な飲酒者が相対的に健康に見える現象。このバイアスや研究の質を補正すると、1日約24g(約1.7杯)以下の飲酒でも死亡リスクの有意な低下は認められなかった。
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